桜問答
山下公園には、美しいしだれ桜がある。桜の木の寿命がどのくらいなのか、ボクには見当もつかないが、いまが旬というか、ちょうど大人になったばかりというか、本当に美しい姿かたちをしている。ウチの犬と連れ立って散歩をすると、いつも沢山の人が写真をとっている。場所は、ちょうどニューグランドの本館の前あたり。かのマッカーサーも、この桜を見ていたのかもしれない。桜は、それとなく、人を歴史へといざなう。
しだれ桜は、和菓子に喩えると、サクラ餅ではなく、道明寺だと思う。こういって、ピンと来る人は、関東の人である。関東では、サクラ餅とは、クレープのような生地で餡を巻いたものをさす。一方の道明寺は、モチモチした生地によって、餡がすっぽりとその中に覆われている。紛らわしいことに、関西では、後者をサクラ餅とよび、前者を長命寺餅と呼ぶのだそうである。この違いを知らないで関東の人と関西の人が会話を続けると、「こんにゃく問答」ならぬ、「サクラ餅問答」になって、結構おもしろい。まったくもって「いとをかし」である。
なんでしだれ桜がサクラ餅ではなく道明寺なのかというと、別に根拠があるわけではなく、ただそんな感じがする、というだけのことである。ボクには、サクラ餅には、あっけらかんとした若さというか、明るさがあるように思える。つまり、それはソメイヨシノなのである。それにくらべて、道明寺には、どことなく、しっとりとした色気というか、奥ゆかしさがある。それがしだれ桜を思い起こさせる。
ところで、白洲正子さんの書いた『西行』(新潮文庫)の中に(←ちなみに、この本は、ボクが最近読んだ本のなかで、もう圧倒的に、もっとも感動した本、ホント、こんな素晴らしい本があっちゃっていいのか、という本である)、西行と在原業平の桜についての歌の違いについての、名文としかいえない一節がある。
西行の歌
春風の 花を散らすと見る夢は さめても胸の さわぐなりけり
業平の歌
世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし
そして、白洲さんは、こう書く。「これは古今集にある業平の歌で、桜の花を謳歌した王朝時代に、もしこの世の中に桜というものがなかったならば、春の心はどんなにかのどかであっただろうに、と嘆息したのである。むろん桜を愛するあまりの逆説であるが、西行がこの歌を知らなかった筈はなく、同じようにはらはらする気持ちを、「夢中落花」の歌で表現したのではなかったか。そこには長調と短調の違いがあるだけで、根本的な発想には大変よく似たものがあると思う」(87頁)。
さて、どちらが長調で、どちらが短調か。ここにも、何の根拠があるわけでない。しかし、それがちゃんと伝わるところが、「いとをかし」である。