山口那津男代表との小さな論争、そして民主主義に対する責任について
先日、あるテレビ番組で山口那津男公明党代表とご一緒させて頂いた。山口さんにお会いするのは、これが二回目である。ボクは、それほどたくさんの政治家を知っているわけではないが、山口さんは本当に立派な政治家であると思う。人と相対するとき、相手の目をしっかりと見すえて、真剣に話しをする。待合室でも、スタッフひとりひとりに対し敬意と礼節をもって接する。伝統ある公党のトップであるのに、偉ぶったところが全然ない。若い頃からちやほやされたためか、自分が世界の中心だと思い込んでいるのか、周りにまったく気配りのない、どこかの政党の誰かさん(←さて、誰でしょう?)とはちがう。
しかも、山口さんは、いつでもどこでも、自分の信じるところに基づいて、きわめて理路整然と主張を展開する。論争相手としては、きわめて手ごわい。国会の党首討論で菅首相をやり込めているところをテレビ中継で見た方も、たくさんいるのではないか。今回ご一緒させていただいた番組でも、ひとつひとつの発言は短いのだがメリハリがあり、きちんとしたメッセージがこもっていた。もちろん政治家であるから、政治的な発言をすることもあった。しかし、そうした発言でさえ、山口さんの場合は、筋が通っている、というか、スキがない、というか、それぞれ相応の根拠をもった発言となっていた。
今回の番組では、その山口さんに、ちょっと論争を挑んでしまった。百戦錬磨の相手に論争を挑むこと自体、無謀であったわけだが、案の定、ボクの方が分が悪かった。リアルタイムで見ていたボクの母などは、「アンタ(←ボクのこと)、ツッコもうとしていたけどカンでたでしょ。ちょっとみっともなかったわよ」と、厳しい評価であった。
では、その論争とは何だったのか。ボクは結構重要なことだと思うので、番組の中でうまく言い尽くせなかったことも含めて、以下に書いてみる。
山口さんは、菅首相の退陣が決まった以上、第二次補正予算は、新しい政権のもとで組まれるべきだと発言した。(ボクもそう思う。)しかし、山口さんは同時に、(菅首相が辞めるとか辞めないとかに関係なく)公債特例法案については、民主党が予算の中身を大幅な見直しをしない限り(参院で)賛成することはできない、と発言した。ボクは、それはおかしいといい、(公明党を含めて)今の野党は、今年度の予算の裏づけとなる特例法については成立させる責任があると思う、と発言した。そのとき、うまくいえなかったが、ボクがいいたかったことは、こういうことである。
民主主義とは、最後は多数決で意思決定をする制度である。多数決で負けた側が、決定がなされた後もずっと反対し続けたのでは、民主主義は成立しえない。どのような議論があったにせよ、いったん左側通行と決めたからには、いくら右側通行をしたいからといっても左側通行に従わなければならない。自分は100キロ出したいけれども、60キロ走行というルールをみんなで決めた以上は、それでも100キロ出して走ったらやっぱりその人はルール違反をしているとみなされるのである。さて、いま、不信任案が否決され、菅内閣は信任された。憲法によって野党に提出が許されている不信任案というのは、議院内閣制のもとでもっとも重要な議案であり、それには大きな責任がともなう。公明党には、不信任案を「提出した」責任もたしかにあるが、それとともに(多数決に破れた以上)国会での議決を「受け入れる」という責任もある。それは、民主主義に対する責任である。自分たちが起こしたアクション(不信任案提出という動議)の結果として菅内閣が「信任」されてしまったのであるから、その内閣がすでに成立させている予算執行を認めない、ということは論理的におかしい。
しかし、ここまでいったからには、返す刀で、民主党に対して厳しいことを言わなければならない。現職の首相が「辞める」という意思表示をすることで、野党の不信任案を否決しようなどという姑息な手段があってよいはずがない。辞めていく首相を「信任」する、とは、どういうことであるのか。国会の議決、憲法に規定されている信任案・不信任案の重みを、何だと思っているのか。民主党は、責任を果たしていないどころではなく、議院内閣制を、そして民主主義を、冒涜したといっても過言でないのである。