マクドナルドの平等と効率性
ボクがよく利用する山下公園前のマクドナルドには、注文のためのレジが複数ある。ボクが見るところ、時間帯によっては、お客さんたちが「一列待ち」をし、空いたレジへと順番に移動する慣行が自然に成立している。ところが、混んでくると各レジの前にそれぞれ列ができるようになり、状況は混沌としてくる。もちろん、「複数列待ち」は、いろいろな意味でフェアーではない。たまたま自分の前の人が大きい注文をし、しかも「領収書下さい」などというしっかり者のお客さんだったりすると、後からきて運良く隣の列に並んだ人の方が自分よりも先に商品を手にする、などということが起こる。また、複数列待ちをしている中、新しいレジが端の方に開かれると、そのレジに近い人だけが排他的にその恩恵を受けることになってしまう。
先日、そのような混沌とした中で不快な思いをしたので、ボクはマクドナルドのお客様センターに電話をして、なぜ会社として一列待ちを全国で徹底しないのか、聞いてみた。すると、1)一列待ちをさせるかどうかは各店舗の判断に委ねられている、2)店舗の中には、一列待ちをさせるほどスペースに余裕がないところもあり、すべてを一律に一列待ちさせることはできない、という趣旨の回答だった。
さて、このマクドナルドの担当者のお話は、ちょっと大げさにいうと、日本における平等の問題、ひいては平等と効率性の問題を考える上で、興味深い題材を提供しているのではないか、と思った。
ボクは、まず上記2)について、一列待ちも複数列待ちも物理的に占めるスペースは同じなのだから、意味の通らない理屈ではないか、と電話口で反論した。すると、その担当者は、ベビーカーなどと一緒に店を訪れるお客さんにとっては、一列待ちをするのが難しい状況もあるのだと弁解した。これは、なかなか練られた理屈となっている。なぜなら、この担当者は、ベビーカーや車いす利用客にも、それ以外の多数の客と同じように、つまり「平等に」、お店を利用していただくために、あえて複数列待ちを許容しているのだという論理を立てているからである。ボクが主張したい一列待ちの平等性原則に対して、少数派への配慮という別の平等性原則を対抗させて、現行の複数列待ちを擁護しようとしているのである。
しかし、よく考えればわかるように、この論理は(その時電話ではいわなかったが)やっぱり破綻している。もし、本当に(つまり、多数派にも少数派にも)平等を追求するのであれば、本来なすべきことは、ベビーカーや車いす利用客が不便を感じないですむだけの一列待ちのスペースを、各店舗に設けるということ以外、ありえない。実際、山下公園前の店は、飲食のためのスペースを少し壊せば、その位のスペースが確保できるほどの余裕が十分ある。それをしないで、多数派に不平等(が生じる可能性)を押し付ける複数列待ちを許容しているのは、なんのことはない、売り上げを延ばしたいという企業の効率性の大原則に従っているだけなのである。
最近日本では、銀行はもとより、JRのみどりの窓口とか、公衆トイレでも、人は整然と一列に並んで順番を待っている光景を目にする。この意味では、マクドナルドの対応(の欠如)は、国際的チェーンとして知られ、しかも大もうけをしている会社のやることとは思えない時代遅れなものである。また、日本社会のさまざまな場面で一列待ちが定着してきているということは、日本人の中には、特に何も指示がなければ、一列待ちをすることが当たり前であると思っている人が増えてきていることを意味する。だから、最低限、マクドナルドには、各店舗において、一列待ちをすることが期待されているのか、それとも複数の列に並ぶことが期待されているのかを明らかにし、混乱を回避するための努力をするという義務があると思う。