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ゲームはいつ(いかに)成立するのか

不朽の名作「明日に向かって撃て」の中に、最近ずっとボクの頭から離れないひとつのシーンがある。それは、映画のまだ前半部分で、列車強盗グループのボスである(ポール・ニューマン扮する)ブッチ・キャシディが、配下の1人からボスの座をめぐって挑戦を受ける場面である。相手は、頭はよさそうでないが、体格の大きな男である。取っ組み合いになったらかなわないかもしれないと察したブッチは、相棒のサンダンス・キッド(ロバート・レッドフォード)に「もし俺が負けそうになったら、アイツを拳銃で撃て」とささやく。その上で、その男に近づいていって、こういうのである。
「それじゃ、まずルールを決めようじゃないか」と。
すると、その相手の男はけげんな顔をして「ルールって、なんのことだ?」と問い返す。
その油断につけこんで、ブッチは男の急所を蹴り上げ、なんなくその挑戦を退ける・・・・。
さて、なんでこのシーンがボクの頭にずっとひっかかっているかというと、これはゲーム理論という考え方の根本的な問題を突いているかのように思えてならないからである。
経済学ではもちろんのこと、最近政治学でもよく応用されるゲーム理論では、人と人(あるいは国家と国家でもよいが)の間の相互作用を、ゲームにたとえる。いうまでもなく、ゲームでは、プレイヤーとプレイヤーが、最低限、お互い何かのゲームをプレイしているのだと認識していることが前提となる。市場での競争もそうであるし、国家間の外交もそうだ、というわけである。つまり、ゲーム理論では、プレイヤー同士が自分たちのプレイしている(あるいはプレイし始めようとしている)ゲームについての認識を共有していることが、ゲームが成立する要件である、とされる。
もしそうだとすると、上のシーンでは、ゲーム理論でいうところのゲームは成立していないことになる。なぜなら、ここでの当事者二人の間には、ゲームの認識について完璧にズレがあるからである。「ルールを決めようじゃないか」といわれた大男の方は、まだゲームが始まっていないと認識していたからこそ、油断して急所に一発喰らったのである。一方、ブッチにしてみれば、ゲームはすでに始まっているという認識でいたわけである。そして、「ルールを決めようじゃないか」といって相手を油断させることも、彼にとってはきわめて有効な戦略だったのである。
しかし、ここでは、やはりゲームは成立していた、と考えなければいけないのではないだろうか。この二人の間のやりとりを見ているわれわれ観客にとってみれば、どうみたって、ここにはブッチが勝者であり大男が敗者であるようなひとつのゲームがプレイされていたとしか思えない。大男の側の認識がどうあれ、ゲームはやはりすでにプレイされていたのであり、彼はそれに気づかなかっただけのことなのである。
ということは、どういうことか。オーソドックスなゲーム理論とはまったく異なり、ゲームが成立するかどうかは、ちっとも当事者たちの認識の問題ではないのである。ゲーム理論では、当然のことのように、ゲームに先立ってプレイヤーが存在すると考えるが、これはまったく逆であって、ゲームがプレイされているからこそ、プレイヤーが見いだされ定義されるのである。ゲームが成立するかどうかは、暗黙のうちにゲームの外部に存在すると想定されている、すべてを見通している全知全能の誰か(われわれ観客であったり、あるいは神であったり、さらにはゲーム理論家本人であったり)が、それを決めているのである。