時間について
ボクは、ハイデッガーをまともに読んだこともないし、また現代物理学にはまったく疎い方であるが、今日は時間について、最近思い当たることを好き勝手に語ってみたい。
まずは、昔、吉本隆明さんがどこかに書いていたこと。それは、人間は「時間」という概念よりも「世代」という概念の方を先に手にいれたはずだというようなことであった。
時間という概念は、きわめて抽象的である。それゆえ、たしかにそれは人間の進化の過程のなかでもかなり最近になって生まれた概念だろうな、という気がする。これに比べて、世代というのは、はるかに現実的で具体的な概念である。当然のことながら、生物種としての人間は、子供を生んで親になることや、子供として自分の親が死んでいくことを、身の回りのこととして経験する。世代なるものの違いや移り変わりを実感することが、何段階かの発展をへて、今日われわれのもつ時間の認識を支えているというのは、納得がいく考え方である。
次に紹介したいのは、オバマ大統領の就任が近づいてきた中で、あるニュースアンカーが語っていた言葉。それは、歴史的にみれば確かにオバマ大統領の誕生は重大な事件であることに間違いないし、多くのアメリカ人にとって彼は最初の黒人大統領であるが、しかし若い人たちの中には、オバマ大統領を、白人でも黒人でもなくただ単に物心ついてからの初めての大統領としてのみ記憶する世代が確実にいる、というようなことであった。ここでも、世代という概念は、われわれの想像力のリーチに収まる、実に現実的で具体的なイメージにつながっている。世代ではなく、時間という概念だけで、オバマ大統領誕生の画期性を表現することはできないのではなかろうか。
さて、話しは多少飛ぶが、最近どこかで耳にしたウィリアム・フォークナーの言葉も、ボクの中ではとても印象深く残った。それは、「過去は死んでいないし、まだ過ぎ去ってさえもいない The past is not dead. In fact, it's not even past」というもの。
「過去」というのは、現在から振り返ってはじめて見出される。ゆえに、過去とは、現在を生きるプロセスの一端として経験するものである。これは、もちろん、「未来」なるものについても、まったく同様に当てはまる。未来を見据えるとか、未来を志向するということ自体、きわめて現在主義的な経験にほかならない。
「現在」なるものからわれわれが抜け出ることは、実は容易ではないのである。
最後に、ボクの大好きな憲法学者ルーベンフェルドの一説。われわれは自由を手に入れるため、過去のさまざまなしがらみから解放されたいと願う。「しかし、真実はどうかといえば、みずからを時間から解放しようとするすべての試みは、それがいかに成功していても、成功のために、時間の中に埋没せざるをえないのである。なぜかといえば、そのような試みは持続されなければならない。奴隷からの永遠の解放が、本当に解放であるためには、すくなくともそれを記憶にとどめる必要があり、そして、それは前向きに実行されなければならず、将来にわたってもそのことが方向づけられなければならない。現在を歴史から解き放ちたいという願望は、この意味で、自己否定的である。」
人間は、時間なくして存在できない。時間こそ、人間がつくりだした、もしくは見出した概念であるにもかかわらず・・・。