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2007年12月28日

カリフォルニアのFMラジオ

カリフォルニア州のコールズバッドという小さな町に高校留学していた頃、サンディエゴから流れてくるFM放送局をよく聴いていた。昼間だけでなく、夜も聴いていた。同じ部屋をシェアしていたホストファミリーの弟が、寝るときもラジオをかけっぱなしにするという習慣をもっていたからである。最初は戸惑ったが、ボクもしだいにそれに慣れるようになった。
ステーションの名前は、FM-B100だったと思う。今もあるのかどうか、知らない。
ボクは、日本の高校時代、自分では結構洋楽を聴いている方だと思っていた。ところが、このFM局から流れてくるほとんどの曲を、ボクは知らなかった。世の中には、いっぱいいい歌があるんだ、自分の音楽の知識なんてほんとに氷山の一角に過ぎないんだ、と思い知らされた。
向こうのラジオは、余計なおしゃべりが少ない。それから、前にも書いたことがあると思うが、向こうのラジオでは、新しい曲とともに、かつての名曲を織り交ぜて、かけてくれる。だから、その留学をしていた一年、ずっとFM-B100を聴き続けたことで、本当に自分の音楽の幅が広がったと思う。
帰国しなければならない日が近づき、いろいろエモーショナルなことが重なる中で、ある日、自分の生活の一部となりつつあったこのラジオ局とお別れしなければならないのだ、とハタと気づき、とっても悲しくなった。それで、あわてて自分のもっていたカセットテープの一面に、その時オンエアされているものをそのまま録音することにした。90分テープだったので、45分間のカリフォルニアの時空間が、そこに詰め込まれることになった。それは、1980年夏のある日(夕方)の45分間のボクの人生が詰め込まれた、貴重なテープだった。
もちろん、ボクは、日本に帰ってから、何度も何度もそのテープを聴いた。しばらくは、一日に一回は聴いていた。しかし、時が過ぎ、大学に進学し、大学院の勉強のため再び北米に戻り、新しい生活が始まり、やがて日本に帰国し・・・などと、いろいろ引越しをしているうちに、そのテープはどこかに行ってしまった。すくなくとも、今のボクの家にも実家にもない。もしかしたら、あんまり何度も聴いたので、もう音質がおかしくなって、どこかの時点でついにあきらめて、捨ててしまったのかもしれない。
しかし、人間の記憶というものは、すごいというか恐ろしい。いまでもボクは、そのテープに、どういう曲がどういう順番で流れていたかをほとんど覚えている。・・・”Listen to the Music,” ”Something,” “Time in a Bottle,” ”Wild Horses,” ”Surfer Girl,” “Pretender,” “Steal Away,” “Feel Like a Natural Woman,”・・・と続いていく。ほらね、どれも名曲ばかりでしょ?こんな感じで、一日中続くあのラジオ局は、本当に素晴らしかった。
先日、Jackson Browneのベストアルバムを買い、Pretenderをipodに入れた。これで、なくしたテープを完結したかたちで、再現できるようになった。30年近く前に過ごしたカリフォルニアの日々の想い出とともに。

2007年12月20日

プリンシプルの孤独

先日、ある席である同僚から「河野さんは、プリンシプルの人だから」といわれた。
ボクはそれを褒め言葉であると解釈して、とても嬉しかった。
とくに、その発言をした人が、ボクの尊敬する同僚だったので、そういわれたときには思わずウキウキしてしまった。
しかし、である。
プリンシプルを貫くことは、往々にして辛い。
ときに、それは我慢できないほどの悲しみをもたらす。
プリンシプルを守り通すことは、非情なまでに孤独である。
外から見ると、プリンシプルを立てて守る人は、自信を持っている人のように見えるらしい。
たしかに、自分が何を求めているか、自分が何を大切だと思うかを確信できなければ、プリンシプルを貫き通すことはできないようにも思える
しかし、ボクの場合、実はまったく逆である。
つまり、ボクの場合、さまざまな場面に遭遇したときに自分で自分を律することに自信がないからこそ、あらかじめプリンシプルを立てて、それを行動の指針とするのである。
ボクは、自分が弱い人間だということを嫌というほど知っている。
だから、あらかじめプリンシプルを宣言して、あとから変な誘惑にかられないように、また後から悪い評判をたてられないように、自分の身を守ろうとしているのである。
ということは、すくなくともボクの場合、プリンシプルを立てて行動することは、小心者が人生を送る上での姑息な処世術であるとさえ、いえる。
プリンシプルを貫き通すことで、大事な友人や恋人を失うことがある。
それは、自分のプリンシプルを貫き通すことで、相手の自由が束縛される可能性が高いからにほかならない。
では、大事な友人や恋人を失うという大きな犠牲を払ってまで、プリンシプルを守る理由はなにか。
その理由は、自分が自分であることの証明を手にいれたいからである。
弱い人間であるがゆえに、ボクは、そのような証明がなくなったとき、自分がどのような自暴自棄の行動にでるか、見当もつかない。
それが恐ろしいので、弱い自分にだって世界に誇れるような自己証明があることを示す必要がある。
そのために、プリンシプルを立てて、それを守ろうとするのである。
プリンシプルを貫くことの孤独は、同じくプリンシプルを貫くことの孤独を知っている人にしか理解できない。
そして、その事実が、プリンシプルを守ることの孤独をより一層深めているのである。