« Douglass North先生 | メイン | カリフォルニアのFMラジオ »

プリンシプルの孤独

先日、ある席である同僚から「河野さんは、プリンシプルの人だから」といわれた。
ボクはそれを褒め言葉であると解釈して、とても嬉しかった。
とくに、その発言をした人が、ボクの尊敬する同僚だったので、そういわれたときには思わずウキウキしてしまった。
しかし、である。
プリンシプルを貫くことは、往々にして辛い。
ときに、それは我慢できないほどの悲しみをもたらす。
プリンシプルを守り通すことは、非情なまでに孤独である。
外から見ると、プリンシプルを立てて守る人は、自信を持っている人のように見えるらしい。
たしかに、自分が何を求めているか、自分が何を大切だと思うかを確信できなければ、プリンシプルを貫き通すことはできないようにも思える
しかし、ボクの場合、実はまったく逆である。
つまり、ボクの場合、さまざまな場面に遭遇したときに自分で自分を律することに自信がないからこそ、あらかじめプリンシプルを立てて、それを行動の指針とするのである。
ボクは、自分が弱い人間だということを嫌というほど知っている。
だから、あらかじめプリンシプルを宣言して、あとから変な誘惑にかられないように、また後から悪い評判をたてられないように、自分の身を守ろうとしているのである。
ということは、すくなくともボクの場合、プリンシプルを立てて行動することは、小心者が人生を送る上での姑息な処世術であるとさえ、いえる。
プリンシプルを貫き通すことで、大事な友人や恋人を失うことがある。
それは、自分のプリンシプルを貫き通すことで、相手の自由が束縛される可能性が高いからにほかならない。
では、大事な友人や恋人を失うという大きな犠牲を払ってまで、プリンシプルを守る理由はなにか。
その理由は、自分が自分であることの証明を手にいれたいからである。
弱い人間であるがゆえに、ボクは、そのような証明がなくなったとき、自分がどのような自暴自棄の行動にでるか、見当もつかない。
それが恐ろしいので、弱い自分にだって世界に誇れるような自己証明があることを示す必要がある。
そのために、プリンシプルを立てて、それを守ろうとするのである。
プリンシプルを貫くことの孤独は、同じくプリンシプルを貫くことの孤独を知っている人にしか理解できない。
そして、その事実が、プリンシプルを守ることの孤独をより一層深めているのである。