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ローマの休日の共有知識

ニューヨークまでの飛行機の中で、「ローマの休日」を見た。
いうまでもなく、オードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックが共演する古典的名作である。もう、何度見ても面白い。そして、もう何度見ても(オードリー・ヘップバーンが)可愛い。なんというか、ため息が出てしまうほど、可愛い。
彼女はこの映画でデヴューした。だから、最初の出演者の字幕のところで、「introducing Audrey Hepburn」と出る。ま、結構知られた話だが、最初、大俳優のグレゴリー・ペックは、自分主演の映画だと思って、この映画を作り始めた。ところが、撮っているうちに、これは大変な新人と共演しているのだと気づいた。それで、宣伝用のポスターの題字の大きさを、二人とも同じにしてくれと、彼から頼んだ、のだそうである。
この映画の最後のシーンは、一日中楽しいデートをしたものの大使館に戻らなければならず悲しいサヨナラをした翌朝に、ヘップバーン扮する王女さまが、大勢の記者たちと面会するシーンである。彼女はその中に、思いもかけず、ペック扮するアメリカ人記者が立っているのを発見する。いうまでもなく、この映画の最大のキモがここにある。なぜここがキモかというと、この場面は(ちょっと学術的用語を使ってしまって申し訳ないが)二人の間で「共有知識」がはじめて成立する場面だからである。
つまり、彼は、彼女が本当は王女であるということを知って(それを特ダネにしようという下心をもって)、前日デートをしていた。しかし、その段階では、彼女は彼が記者であるということは知らない。もちろん彼は、彼女が知らないということも知った上でデートしていたのである(←この辺に「やっぱりこの映画、ジェンダーバイアスがかかっているわよね」という批判が成立しそうであるが、ちょっとそれはおいておく)。で、この最後のシーンがキモであるのは、彼女が「ああ、そういうことだったの」と、状況をいまはじめて正しく理解したということを、表情ひとつでみせなければならないからである。このシーンにおけるオードリー・ヘップバーンの(表情ひとつだけの)演技で、この映画が素晴らしいものになるかそうでないかが決定する。そして、それが本当に素晴らしいので、われわれはこの映画を何度も何度も見ようという気になるのである。
もちろん、グレゴリー・ペックの方も負けていない。なぜかというと、この場面で、彼は、彼女がすべてを理解したんだということを理解したことを、こちらも表情ひとつでみせなければならないからである。そう、共有知識というのは、両方が知っているというだけでは成立しない。二人とも知っており、二人とも相手が知っているということを知っており、二人とも相手が相手が知っているということを知っているということを知っており・・・・(無限に続く)・・・という状況でなければならないのである。
ところで、いうまでもないが、ここにはもうひとつの共有知識がある。
それは、この映画を見ているわれわれ観客は、前日まで彼は知っているが彼女は知らない、そしてこの場面で初めて彼も彼女も知るようになるんだ、ということをすべて知っているということである。
映画の面白さは、登場人物のあいだで成立している(あるいは成立していない)共有知識と、観客のあいだで成立している共有知識のズレにあるといえるのである。