「雲と愛と人生と」の話
この表題を見ただけで、ピンと来る人はすごい。これは、ジョニ・ミッチェルの名曲のひとつ、Both Sides Nowという唄の中に出てくる、いわば三大話である。
ジョニ・ミッチェルは、あんまり日本ではメジャーではないような気がするが、ボクは大好きである。唄だけでなく、あの人の生きざまも大~~~好きである。
ところが、最近ゼミ生たちに「ジョニ・ミッチェル知ってるか」ときくと、たいてい知らないという答えが帰ってくる。とても悲しい。
ただ、このBoth Sides Nowだったら、最近でもテレビのコマーシャルに使われているので、聴けば「あああの曲ね」という方も、結構多いのではないかと思う。
さて、この唄には、日本語では「青春の光と影」というタイトルがついている。
誰がつけたのか知らないが、ボクはこれは変なというか、困った訳だなと思っている。
まず、日本語の「青春」に相当する言葉は、英語には存在しない。
それから、「青春の光と影」というのは、重いというか、濃すぎる。このタイトルだけが一人歩きして、素晴らしい唄がすっ飛んでしまう。なんとももったいない。
そして、もっとも致命的なのは、「青春の光と影」などというと、大人が自分の若い頃を振り返っているというような感じがすることである。あるいは、斜に構えた傍観者が、誰か他人の人生を観察して、あなたの人生にも光と影があったわね、いい時も悪い時も両方あったわね、まあ人生なんてそんなもんよ、などと達観し、偉そうに語っている感じがつきまとってしまうことである。
これは、本当に困る。
なぜかというと、この唄の中でジョニ・ミッチェルが伝えたいのは、こうしたイメージとはまったく逆のメッセージだからである。
つまり・・・・
自分は、空に浮かぶ雲をみても、ひとつの見方じゃないんだということを思い知らされた。
いろいろな恋愛を経験して、愛するとか愛されるとかいうことが何なのかわからなくなった。
ましてや、人生なんて、自分でどう考えていいのか、いまだにこれっぽっちも見当がつかない。
・・・
だから、「達観」とか「傍観」とか「偉そうに」というイメージとは正反対に、この唄は、成長したところで絶対に消えてなくなることのない、人間の根本的な迷いとか疑いについて、語っている唄なのである。嘘だと思うのなら、一度じっくり、彼女の歌詞を英語で読み、彼女の奥行きある歌声を聴いてみるといいと思う。そのメッセージは、心に沁みわたるように、伝わると思う
では、ボクだったら、この唄に日本語のタイトルをつけるとき、なんとつけるか。ボクだったら、きっと、このブログの表題のように「雲と愛と人生と」とする。その方がずっと自然でシンプルで、唄の内容にそのまま即している。
ちなみに、この唄はいろいろな人の持ち歌になっているが、是非彼女自身がオーケストラをバックに歌っているバージョンを聴いてみてください。