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不自由を選択することの自由

ニューヨークのホテルからJFK空港まで、タクシーで行った。JFKから市内までは、均一料金で45ドルだが、その逆は必ずしもそうと決まっているわけではない。しかし、この運転手さんは、フラットにしてくれた。
人のよい、フレンドリーな運転手さんだった。
彼は、バングラデシュからの移民だった。
5年ほど前にアメリカに来て、帰化したのだそうである。「今度国へ帰るんだよ」と、嬉しそうにいう。こちらで結婚し子供ができたので、家族を連れて故郷へ帰り、両親に見せたいのだそうである。お父様が最近心臓の手術を受けられて、ここのところずっと心配しているのだ、ともいう。
いうまでもなく、タクシーの運転手としての稼ぎは、それほど大きくはない。
しかし、彼はいう。「子供二人連れてバングラデシュまで行ったら、とっても高くつくのはわかってる。帰ってきたら、破産みたいなもんだよ。でも、金は問題じゃない。金なんか後からどうにでもなる。でもオヤジが子供たちに会えるのは、今しかないかもしれない。そうだろ?」
「その通り。」
ボクは、このような考え方が大好きである。
そして、ボク自身、同じような生き方をしているように思うので、とっても共感した。
では、このような考え方、生き方とは、どういうものか。
それは、不自由を選択することの自由を大切にする、ということである。
・・・などというと、ちょっとコムズカシイので、もうすこしわかりやすくいうと、ですね・・・
現代人は、いつでもさまざまな選択肢を持って生きているわけですね。何を食べようか、何を着ようか、この人とデートしようか、あの会社に就職しようか、などなど。しかし、ボクには、それと同時に、人には、(このタクシーの運転手さんのように)その時々でやらなければならないことが与えられているようにも思えるのであります。
で、これは、倫理の問題とか道徳の問題とかではない。ここにあるのは、究極的には「いかにして自分が幸せでいられるか」という個人の(もっといえば個人主義的な)判断ではないか、と思う。
たとえば、この運転手さんは、今故郷に帰らないと決断した場合の、その後の自分の人生が(たとえ金に困らないでいられるとしても)どれくらい不幸せなものになるのかを、よくわかっているのである。だからこそ、たとえお金に困るという「不自由」が生じるとしても、それを自らよろこんで引き受けようとしているのである。今、故郷に帰れば、子供たちとお祖父さんとが会えたという記憶が残る。そしてその記憶は、当然、子供たちにもずっと長く残ることになるのである。
こうした考えは、幸せなるものを刹那、刹那に捉える限りでは、生まれてこない。しかし、ボクにいわせれば、幸せとは、時間を超えて、今日だけでなく10年先、20年先のことをも考えた上で、自分に与えられている最良の選択肢を選びとることに他ならないのである。