工事は終わらない
この前、南北線で帰ったら、南北線の乗り入れている東急目黒線の武蔵小山と西小山の駅が、ともに地下にもぐっていてびっくりしてしまった。一夜にして、地上から地下へと、路線が切り替わっちゃったのである。「こんなことができちゃうんだ」と、まずは日本のそうした工事技術の水準の高さに恐れ入ったが、それとともにボクの胸中では哀愁の感が溢れ出した。武蔵小山も西小山も、ともに下町的な商店街の残る情緒ある町である。いつも大売出しの赤札を掲げるふとん店、ダイコンを安売りしている八百屋、駅前の焼き鳥屋の暖簾とその向こうに見えるサラリーマンの影、昔ながらのキャバレーとその前で客引きする蝶ネクタイ男、山積みになった放置自転車、ちょっと入ると猫が出てくる路地があり、そこに町工場がひしめいている、などなど・・・これらがボクの持っている武蔵小山と西小山のイメージである。前までの(地上)駅は、どちらも小さくカワイク、また暗くて汚くて(←失礼!)、そういった町の雰囲気とピッタリ釣合っていた。しかし、どうも、地下化された新しいピカピカの駅は、似合っているとはいえない。
踏み切りを避けるためだか、地上に駅ビルを建てるためだか知らないが、ボクの馴染み深い東急沿線からは、昔のスタイルの駅がどんどん消滅している。東横線も、かつては、日吉とか新丸子とか田園調布とか、個性あふれる駅がたくさんあった。今では、それらが、画一化され、地下にもぐった駅に次々変身している。今では、田園調布と日吉と大岡山は、簡単には見分けられない駅になってしまった。酔っ払っていたら、日吉で降りるつもりが、田園調布で降りてしまうことも、十分考えられる。そして、これは、笑い事ではないのである。
ま、近代化や都市化の流れだからしょうがないねとあきらめることもできるが、ボクには、どうもしっくり来ないところがある。どうもボクには、近代化とか都市化とやらが、未来永劫、これからずっと続くプロセスなのだ、ということが、自分自身でよく理解できてないような気がするのである。
ええと、どういえばいいのかな。工事とは、ふつうわれわれは、始まりがあって終わりがあるもの、として理解している。建設現場などでよく「工事中、ご迷惑をおかけします」という看板を見かけるが、これは「工事が終わったら、元の静かな生活に戻れますから、それまでちょっとのあいだ辛抱してください」というような意味の看板である。しかし、実は、工事は終わることがない。近代化、都市化の流れのなかでは、工事は永遠に続くのである。
たしかに、今回、西小山と武蔵小山の駅は、地下にもぐった。しかし、東急関連では、現在、武蔵小杉までしか乗り入れていない目黒線を、日吉まで伸ばす別の大工事がすでに進行中である。それとは別に、渋谷では東急文化会館が取り壊され、そのスペースを利用し、うまく東横線が早稲田近辺まで地下鉄で乗り入れできるための工事が進んでいるらしい。そして、ご存知のとおり、その地下鉄のための工事で、明治通りはここ何年か常に工事中であり、昼から夜まで渋滞の温床となっている。つまり、ある工事が終わっても、次の工事、その工事が終わっても、そのまた次の工事・・・というように、ここには終わりのないプロセスがある。すべての工事がおわり、いつか安寧の地に至るということは、ボクらにはありえない。
「工事中ご迷惑をおかけします」などというのは、なんともしらじらしい感じがする。考えるとちょっとおぞましいが、そうした工事中の看板がひとつもない、静かな世界にわれわれが住むようになる時代は、絶対に訪れないと考えた方がよいのである。