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似ている、ということ

先々週だったか、ゼミの途中で、あることに気付いた。
ボクと出村君は、似ているかも、と。
髪の長さもスタイルも、顔の形も結構似ている。かけてるメガネまで、似ている。
そう考えると、なんだか出村君の話し方まで、ボクの話し方に似ているような気がしてきた。
その瞬間、ボクの内部で衝撃が走った。いったい、このことについて、どう考えていけばよいのか、という自問が始まった。
まてよ・・・他人の空似というのは、よくあることではないか・・・そんなことで、いちいちうろたえるのはおかしいぞ・・・と、一応思ってみる。
しかし、まてよ・・・もしゼミ生の誰かが気付いちゃって、「出村君と先生ってサア、なんか似てない?」なんていいだしたら、どうしようか・・・いや、これは気まずいゾオ・・・いくらなんでも「おお、そうか、それは嬉しいねえ」なんて白々しくて言えやしない・・・かといって「いやそんなことないよ」なんていったら、出村君が傷ついちゃうかもしれない・・・さあて、どう、受け流せばいいんだろう・・・
出村君は、ボクのゼミ生である。ボクは、ゼミの教官である。これからも、ボクと出村君は、机を隔てて、何度も何度も、顔を会わせなければならない。そのたびに、お互いがちらちらと似ていることを確認しあうのは、なんとも気持ち悪い・・・まわりのみんなから、じろじろと見比べられるのも嫌だし・・・
でも、ですね、今日ですね、実は、ボクは、じっくり出村君を観察しました。
そしたら、それほど似ていない、という結論に達しました。
なあーんだ、よかった、よかった。めでたし、めでたし(?)。
というわけで、そのことを、この日記に書くことにしたのであります。
ところで、なぜ、血のつながりのない赤の他人同士が似ているなんてことがあるのか?ボクは、それは人間の認知力の問題ではないか、と思っている。
人間の顔とか表情は、DNAによって決まっている。おそらくは数え切れないコンビネーションがあるのであろうけれども、人間は生活上、そうした巨大な情報を自分にとって分かりやすい情報、処理できるぐらいの情報に圧縮して考えなければやっていけない。それゆえ、人間は、知らず知らず、顔とか表情とかの特徴をいろいろな(おそらくはそれほど多くない)カテゴリーに分けて考えるようになっている。まったく関係のない人同士のあいだにも、共通項を見出そうとする習性がついているのは、そのためだと思う。
人種や民族のステレオタイプも、同じ理由から起こるのであろう。それから、親と子が似ている(ように見える)のも、親子だと知っているから、見ている方が共通項を見出そうというバイアスをもっていることの影響が大きいと思う。それが証拠に、世の中には、言われてみなければけっして親子とわからないような、一見全然似てない親子もちゃんといる。
さて、中田英寿が引退することになった。ボクは、いろいろな人から中田に似ているといわれる。このあいだも、ボクの日記を読んでくれている学生から、「引退残念ですね。ところで、先生って、中田に似てますね」といわれた。もちろん、悪い気はしない。ボク、中田大好きだからね。しかし、そういう場合、それはチガウだろうと、次のように諭してやることにしている。「キミねえ、オレと中田とどっちが年上だと思っているの?オレが中田に似ているんじゃないの。中田がオレに似たんだからね。」