« コラボについて | メイン | 合宿でのスポーツ三昧 »

人生のニアミス

きのう帰宅途上の九段下駅で、東西線から半蔵門線に乗り換えるときに、ゼミ生の渡辺さんにばったりと出会った。ボクの早稲田からの帰宅経路は、ほかにもJR高田馬場経由、メトロ飯田橋経由、メトロ大手町―JR東京駅経由などいくつかあるので、これはちょっとした偶然である。ただまあこのぐらいの偶然なら、そんなに驚くこともないのかもしれない。しかし、この前の休日、横浜元町の喜久屋でお茶していた時、大島さんがご両親と一緒に入ってこられたときには、本当にびっくりした。えっ、これってどういうこと?という感じだった。人違いだったら嫌なので、ホンモノの(?)大島さんかどうか厳重に確認してから、声をかけた。そして、「おい、大島」と声をかけたら、「だれだ、オレを呼び捨てにするのは」といった表情でお父様がこちらを振り向いた。そりゃそうだよね。その節は、大変失礼いたしました。
思いがけないところで思いもよらない人に出会うことは、もちろん、それほど日常茶飯事に起こるわけではない。しかし、そうした偶然は結構起こるもの、という印象をボクはもっている。実際、ボクは、東京や日本のみならず、海外でも、こうした偶然の出会いを経験している。たとえば、昨日話題に上った西澤先生とボクとは、カナダの首都オタワのある橋の上でばったり出会ったことがある。また、ワシントンDCを歩いていたら、フーバー研究所時代に仲のよかった経済学者とはちあわせになったことがある。身近な東京や狭い日本だけならまだしも、世界的な範囲でこうしたことが起こるものなのである。
さて、このような人生における偶然を、どう考えればいいんでしょうかね。ひとつひとつの「偶然」になにか特別な意味が込められていると思い込むのは、モダンでロマンチストすぎる気がする。だからといって、ポストモダンニヒリストのように、こうした偶然が人間のあり方について示唆することが何もない、と断じるのも、ちょっと違うような気がする。ボクの考えは以下の通りである(←もしかしたら、こんなことはもう誰か(ヴィトゲンシュタインか?)がいっていることなのかもしれないが・・・)
思いもかけない偶然が起こる、それは何を示唆しているかいうと、もしかするとこの世界では、そうした偶然があとちょっとのところで起こったかもしれない「ニアミス」が無数に起こっている、ということではないだろうか。それらはニアミスであるがゆえに、ほとんど気付かれないで過ぎていってしまう。西澤先生とボクは、もうすでに、何回も、東京の山手線や京都の地下鉄で、隣同士の車両に乗り合わせたことがあったかもしれない。ボクと吉永小百合は、早稲田のラグビーの試合をごく近くの席同士で観戦していたことがあったかもしれない。偶然はわれわれの脳裏に記憶として刻まれるが、ニアミスはまったく記録に残らない。そして記録に残らなければ、それは世界の歴史上、起こらなかったことに等しいのである。
よく「運も実力のうち」という言葉を耳にする。ボクはその通りだと思う。なぜなら、ニアミスは、すべての人に平等に訪れているはずだからであり、この場合の実力とは、そうした「ニアミス」を「偶然」に引き寄せてしまう、その人の何らかの力にほかならないからである。