ヒューム『人間本性論』の誤訳について
今日は、ある論文のひとつの註を書くために、丸一日を費やしてしまった。
すでにその論文の締め切りをとうに過ぎていることからすると、たったひとつの註を仕上げるために丸一日もの貴重な時間を割いていいのか、と思われるか知れない。いや、まさにその通りで、本来であれば、そんな時間を割くべきでないのである。しかし、ここが研究職につくものの悲しい性(さが)で、どうしても妥協をしたくない一線というのがあって、そのために色々と資料をあたり、間違ったことを書かないように、時間を惜しみながらも、完璧をめざしてしまうのである。
では、今回一つの註を書くのに、なぜそれほどまでに時間がかかったのか。その理由は、ヒュームの『人間本性論』の新訳が法政大学出版局から出たのであるが、ボクがたまたま興味をもった箇所が、どう考えても誤訳ではないかと思えてしょうがなかったからである。もちろん、誤訳だとすれば、誤訳と言い切るだけの根拠を用意しなければならない。そして自分なりの正しい訳を用意しなければならない。それで時間がかかってしまったのである。
その当該の部分は、人間社会における道徳(美徳と悪徳)の根拠が理性ではなくむしろ感性にあるとヒュームが主張しているところ(Book III, Part III, Section I)にある。原文は、こうである。
“In general, all sentiments of blame and praise are variable, according to our situation of nearness or remoteness, with regard to the person blamed or praised, and according to the present disposition of our mind. But these variations we regard not in our general decision, but still apply the terms expressive of our liking or dislike, in the same manner, as if we remained in one point of view.”
この部分、伊勢俊彦氏、石川徹氏、中釜浩一氏による新訳では、次のようになっている。
「一般に、非難や称賛を受けている人物に対する近さや隔たりといったわれわれの位置に応じて、またわれわれの精神の現時点での状態に応じて、非難や称賛のあらゆる心情は変化する。しかし、こうした変化をわれわれは一般的な判定では顧慮せず、われわれの好悪を表わす語を、依然として、われわれが一つの観点に留まっている場合と同じ仕方で適用する。」
たとえば、この中のliking or dislikeを、ボクであれば「好悪」などと訳すことはありえない。この部分でヒュームが強調しているのは感性なのであるから、「好き嫌い」と訳す方がよほど文意に沿っている。「好悪」では、そもそも日本語としてしっくりこないばかりか、(好き嫌いという言葉が表すような)人々の主観的感情の表れであることがまったく伝わらない。
しかし、さらに致命的な誤訳だと思うのは、後段の部分の “as if”が見逃されている点である。ヒュームの主張したかったことは、「あたかも一つの観点に留まっているかのように」ということであり、それはすなわち「本当はひとつの観点に留まってはいないのに」という主張なのである。ところが、上記の訳では、この「あたかも」が訳されていないので、ヒュームが「一つの観点に留まっている」と信じているかのように理解されてしまう。しかし、これでは文意がまったく逆である。
そのようなわけで、ボクはこの部分を自分で訳し直さねばならなかった。ボクの訳は、以下の通りである。
「一般に、非難や称賛などあらゆる心情は、非難や称賛を受けている人物に対する近さや隔たりといったわれわれの位置に応じて、またわれわれの精神の現時点での状態に応じて、ばらつくものである。しかし、われわれは、自分たちが持ち合わせている何らかの一般的な判断のもとで、そうしたばらつきを認知しているわけではない。われわれは、あくまで好き嫌いを表現する言葉をそれらにあてはめて、そうすることであたかも一つの観点に留まっているかのような仕方で、認知しているのである。」