町の適切な規模について
久々にカナダのバンクーバーを訪れて、あらためてこの町の素晴らしさを実感している。海あり山ありという自然のランドスケープの見事さはいうまでもない。それ以上に、そのランドスケープにぴたりとはまっている人々の風景が美しい。
たとえば、公園では、犬を散歩させている小学生とか中学生ぐらいの子供をよく見かける。おそらく、それが彼らに与えられたchore(家族の中での仕事)なのであろう。
カフェでは、ipodをききながら、大学生(と思われる若い人)たちが、分厚い教科書を読んだり、パソコンをたたいている。これからの自分の人生に、まっすぐ向き合っている感じがする。
バイシクリングをするカップル。ちゃんとヘルメットをかぶり、右折や左折のジェスチャーをして、交通規制を守っている。
そして、ベンチでゆっくりとおしゃべりしているリタイア仲間たち。ギリシャ系、あるいはポーランドなどの東欧系の顔をみることが多い。
なぜボクがこうした風景を美しいと思うのかというと、それぞれの人々の姿がバンクーバーという町を構成するピース(部分)のような、一種の調和があるかのようだからである。うまくいえないが、それぞれまったく異なった行動をとっているのに、彼らの行動のひとつひとつが、全体の中で位置づけされ、秩序づけられているという感じがする。バンクーバーには、いうまでもなく、いろいろな人種・民族背景をもった人が住んでおり、貧富の差もかなりはげしい。そうした多様性にかかわらず、バンク―バーという風景に、みんなしっくりなじんでいる、というように見えるのである。
いつもいうのだが、ボクは、町には適切な規模があると思っている。ボクの中では、その基準というのははっきりしていて、それは、人が一日行動していると思いがけなく知り合いに遭遇することが、午前と午後に一回ずつぐらい起こる、という程度の規模である。バンクーバーでは、実際そのぐらいの頻度で、かつての知り合いとか、娘の高校時代の同級生とかに遭遇する。
こうした遭遇が「人とつながっている」という安心感を与える。もちろん、防犯や青少年の非行抑止といった点においても、遭遇の可能性があるだけで、かなり効果がちがうと思う。そして、そのような遭遇によって、住んでいる町が自分たちのコミュニティーであることを実感できるようになると思う。自分が不特定多数の一人なのではなく、誰かから特定されるという期待が、町へのコミットメントを高め、自分たちの町だから、きれいにしていこうとか、自分たちの町だから子供たちがちゃんと育てられる環境にしていこう、とかいった気運が醸成される。
これは、日本でむかしからある「ご近所」という感覚と、似ているけれども、ちがうと思う。ご近所では、毎日顔を合わせることが当たり前のように期待される。しかし、重要なのは、思いがけなく遭遇する、ということにある。「思いがけない」という距離感が、必ずしも「ご近所」にはないプライベートな空間を担保しているからである。
いいかえれば、町は、広くなりすぎてもよくないし、狭くなりすぎてもよくない。それには、適切な規模がある、と思うのである。