(続)なぜ経済学者の論争は不毛か:消費税アップの是非について
消費税を上げることが景気に及ぼす影響について、一部の経済学者は、それほど大きくない、と言い張っている。他方で、いやいや、このような不景気の時に消費税を上げるのは、経済学を知らない人たちのすることだ、という意見も根強くある。
いったいどちらの立場が正しいのか。
ボクは、最近、経済学という学問がつくづくわからないのであるが、すくなくとも社会科学の根本的な作法に従うとすると、こういう問題は反証可能なデータでもって決着をつける、というのが筋ではないかと思う。ここで重要なのは「反証可能」であるということであり、それは、自分の主張を支持するデータ分析をきちんと公開し、そこに誤りがあったと判明した時には、素直にというか謙虚にというか、「ごめんなさい、ワタシ間違ってました」という可能性を自ら開いておく学術的態度を意味している。そのような素直さないし謙虚さがそなわってないなら、学問は「科学」としての地位を失う。
ところが、消費税アップの効果について最近議論している日本の経済学者たちが、自分たちの主張の根拠となっているデータを示すことは稀である。疑い深いボクなどは、この人たちは根拠となるデータをもっているのか、とさえ勘ぐりたくなる。彼らは、自分たちの主張の「理論的」正しさばかりを、声高に、あるいはさりげなく、訴える。しかし、「理論」は「データ」によって反証されるべきものではないのか。そもそもそのような反証可能性を担保することこそが、経済学を科学たらしめるのではないのか。データの裏付けもないところで、どうやって経済学は、カルト宗教などの「疑似科学」と一線を画すことができるのか。
実は、消費税を上げることがどのような効果をもたらすかを、データでもって裏付けることは、かなりむずかしい。たとえば、増税が一般の人々の消費の動向に与える影響を調べるのだとすると、必要となるデータは、一般消費者の心理や行動に関するものでなければならない。そのようなデータは、単に集計的な経済統計を眺めているだけでは、手に入らない。大掛かりな調査データ、すなわち(国全体の消費者を代表すると思われる)数千人のサンプルに対してことこまかにサーヴェイをして、得るしかない。
しかも、こうしたサーヴェイの仕方それ自体には、むずかしい工夫が要求される。サーヴェイをした経験のある者ならだれでも知っているが、質問に対する回答は、その質問がどのようなワーディングでなされているかに、大きく依存する。ただ単に「もし明日消費税の税率があがったら、あなたは今日よりも消費を手控えると思いますか」と聞いたら、おそらく圧倒的多くの人は「イエス」と答える。しかし「今後日本では消費税が段階的にあがっていくことが予想されていますが、もしそうなったら、あなたは現在よりも消費を手控えると思いますか」と聞いたら、「イエス」と答える人の割合はかなり減るのではないかと思う。いったいどういう聞き方をするのが、もっとも正しいのか、これはそう簡単には決められない。
いずれにせよ、人々の心理や行動に関する洞察や、サーヴェイという手法そのものについての知識がなければ、消費税率をアップすることがどのような効果をもたらすかを、データによって裏付けることはできない。そして、ボクには、こうした洞察や知識は、オーソドックスな経済学の守備範囲を大きく逸脱しているとしか、思えないのである。