兎と亀の政治学的会話:サンデルの特別講義(4月16日放映)と原発について
兎:見たかい?
亀:うん、見た。ハーバードの学生たちがまったく手ぶらでスタジオに来ていたのに、中国の学生たちがみな机にしがみついてノートとりながら参加してたのが印象的だった。
兎:なんだ、そんなとこ、みてたのか。
亀:だってさ、議論そのものは陳腐な対立構図をなぞるものばかりで、面白くなかったもの。NHK的には前回のシリーズが大成功だったので、もう一発を狙ったんだろうが、実にうすーい二番煎じだった。
兎:そうかな。相変わらず、若い学生たちは、ものおじせず自分の意見を言ってて、よかったと思ったけどな。とくに原発についてとか。
亀:そういえば、きいたかね、NHKについては、東電に批判的なことをいうと解説者が番組から干されるという噂が出ているらしいよ。一回限りしか出演しない学生に対しては、プレッシャーをかけようったって、無理だから、彼らは気兼ねなく発言できるのさ。
兎:おいおい(笑)。さて、その原発についてだが、サンデルの提示していた問題は、「早稲田のちょいわるオヤジ」とかいうブロガーも提示していた選択そのままだったね。原発のリスクを理解した上でそれを容認するか、生活レベルを低くしても依存を下げていくか、という「究極の選択」。
亀:そうだったね。早稲田のちょいわるオヤジさんはよく知っているが、あの人は別に原発を容認しろとも止めろとも、いってるわけではない。ただ、それを、一回、ちゃんと国民投票にかけてきいてみたらどうかっていってるんだ。民主主義なんだから、と。
兎:原発については、誘致先候補となったところで「住民投票」をやることはあるけど、日本人全体に対して、この政策に賛成か反対かをちゃんと判断をあおげ、ということだね。
亀:そう。ただその場合、自分の家の「裏庭」にさえ原発がたてられなければいい、というただ乗り心が働く余地のない選択だということを徹底させなきゃ、意味がない。だから、原発を容認するとなったら、くじ引きで原発の立地先を決めるとか、東京の電力は東京にたてる原発でまかなう、という縛りをあらかじめかけることが必要となってくるだろうな。
兎:サンデルは、この問題自体については、自分の意見をまったく述べなかったね。
亀:そうだったね。しかし、彼の他の部分での議論を聴いていたら、彼は、突き詰めると、原発リスク容認派にならざるを得ないんだろうな、と思った。
兎:なんでだい?
亀:番組の最後のところで、サンデルは、遠く離れた日本で起こった惨事に、世界が共感できる可能性について語っていたよね。
兎:たしか、サンデルは、その時ルソーを引いて次のようにいっていた。ルソーは、実際日本を例にだして、地球の反対側にある国に対してヨーロッパが共感するわけない、と書いていた、と。ところが、サンデルは、ルソーの時代には無理だったかもしれないけれども、今回の震災後の展開は、そうしたグローバルな共感が広がる可能性をみてとれた、とポジティヴにみようとしていた。
亀:つまり、サンデルは、世界の距離を縮めるような、コミュニケーションやテクノロジーを歓迎するわけだよね。具体的には、ユーチューブとかフェースブックとか、あるいはそれらを支えるパソコンとか。そうしたものを通して、コミュニタリアニズムが世界主義的レベルにまで拡大できることになる、と。そうなれば、たしかに、コミュニティ同士のエゴのぶつかりあいという、コミュニタリアニズムの欠点を超越できることになる。しかしだね、そのためには、つまり、そのような世界というものの距離の縮まりを実現するためには、おそらく原発は不可欠な要素とならざるを得ない、としか思えないんだよ。