小三治の厩火事を聴く
鈴本の夜の部に小三治師匠が出ていると知ったので、時間をやりくりして聴きに行った。
生で見るのは、初めてである。プロフェッショナルという番組で彼の特集を見たとき、やはりこの人の噺は一度ちゃんと寄席で聴いておきたいと思うに至り、今回それがようやく実現した。
上野広小路に着いたのは、開場30分前。しかし、雨の中もうずらりと行列ができている。ふつうの日だからすいているかと思ったら、大間違いであった。そんなことで、弁当も買い損ねて、中で海苔せんべいとミックスナッツとビールを買い込み、着席。それがその日の夕食代わりとなった。
大看板が登場するまでには、まだ3時間もある。しかし、その3時間のあいだ、すべての観客が彼の出番を待っていた。それは誰の目にも明らかであった。他の出演者も「あと少しで出てきますから」などといって、客が自分ではなく柳家小三治を聴きに来ているのだということを素直に受けとめていた。楽屋に師匠がいるということを意識してか、舞台は最初から最後まで緊張感に包まれ、非常に引き締まっていたように思う。
マクラが面白かった。「昨日は、マクラで乾電池の話をしたんです」と始まり、結局その日のマクラも、その乾電池の話の発展系に終始した。師匠は、マクラでの客の反応をみて、演目を決めるらしいので、ボクは「いったいこの反応だと、どういう噺になるのだろう」と、自分たちの笑いのレベルがどんなものなのか気にしながら聴いていた。一段落したところで、「じゃあ、この辺で、落語でもやりますか」と、彼らしく笑いを誘っておいて、「厩火事」が始まった。
「落語には、面白くない噺も多いんです、今日の話もそのひとつです。」
たしかに、厩火事は、人情に訴えるところもある。夫婦関係を考えさせるという、かなりシビアなメッセージもある。またあまりに有名な最後のサゲは、ブラックユーモアの極限みたいなもので、「滑稽」という意味での「面白い」とは程遠い。しかし、それでも師匠は、細かなところで笑いをとりつつ、絶妙に(ホント、肘の使い方ひとつで)人物を演じ分けて、われわれを髪結い女房とその亭主の世界に引きずりこんでいった。ボクは、大満足であった。
家にもどって、もう一度プロフェッショナルという特集番組をyou-tubeで見た。彼は、悩んでいたとき、「落語を面白くするには、面白くしようとしないことだ」という志ん生の言葉に活路を見出し、自分をありのまま出そうとすることを心がけようとすることで境地を開いたのだそうである。そして、彼は「笑わせようとするんじゃなく、つい笑ってしまうのが芸だ」という。
志ん生の言葉も、師匠自身の言葉も、どちらもとてつもない逆説を含んでいる。
ボクが、文章を書くことを職業にしたときに、自分の中で大きく響いていたのは、村上春樹がむかしあるインタヴューで語っていた言葉で、それは確か「うまい文章を書くためには、うまい文章を書くことをあきらめることだ」というような内容であった。ここにも、同じような逆説があるが、それをボクはボクなりに、「よい文章とは、すべてを捨て去ったまっさらな中から自然と生まれてくるもの」と理解してきた。
小三治師匠には遠く及ばないながらも、ボクも仕事の中で、もっともっとうまく自分のありのままを出せるように、と願うばかりである。