今どきジェネラリスト宣言
時はいま、スペシャリストの時代であるらしい。
何か特別な技能や資格を持っている人の方が、就職や再就職のとき強いといわれている。
逆に、ジェネラリストの評価は、著しく低い。
総合と名の付く業種、たとえば総合デパートとか総合メーカーとかは、日々血眼になりながら、生き残る道を模索している。いや、彼らは、しばしば「総合=ジェネラリスト」としての自らのアイデンティティを捨てることで、なんとか活路を見出そうとしているようにもみえる。
ボクは、時代とまったく逆を行くようだが、いつも自分の学生にはスペシャリストにならないでジェネラリストになりなさい、といっている。たしかに一見「何でもできる人」が、実は「何にもできない人」であることもある。しかし、一見ではなく本当に「何でもできる人」がいたら、それに越したことはないではないか。
スペシャリストに比べてジェネラリストの評価が低いというのは、どう考えてもおかしい。それは、部分集合の方が和集合よりもでかいと主張するのと同じで、まったく論理的ではない。
ボクの限られた人生経験からいわせてもらうと、趣味のいい人は、どのような分野においても趣味がいい。また、ひとつの分野で才能のある人は、結構いろいろな分野で隠れた才能をもっている。そういうものである。
たとえば、センスのよい音楽を聴いている人は、洒落たユーモアをもち、語彙も豊富で、クレヴァーな会話ができる人が多い(←具体的に誰って言われるとちょっと困るが、たとえば村上春樹とか)。美味しいレストランを知っている人は、オシャレな服を着ているし(←青木昌彦とか)、自分で料理をさせても一流である(←ジョン・フェアジョンとか)。ある競技で秀でたスポーツの才能を持った人は、別の競技をやらせてもたいていうまくこなしてしまうし、場合によってはプロ級の技術を身につけている(←ボクは、バスケットのスティーヴ・ナッシュがサッカーボールを一流のサッカー選手のように扱うのを実際この目で見たことがある)。
・・・というわけで、何がいいたいかというとですね、趣味の良さとか何かに秀でているとかということは、分野を超えて相乗効果を持つものだと思うのです。まったく関係のない分野だと思ってはじめから切り捨てるのではなくて、いろいろな分野で才能を磨いていこうとすると、結局すべて自分に財産となって返ってくる、そういう気がするのであります。
よく大学院へ進学が決まった学生が「先生、授業が始まるまで、何を読んでおいたらいいですか」とたずねてくることがある。そういう時に、ボクは決まって次のようにいう、「院の授業が始まったら、専門的な論文ばかり読むようになるから、まったく関係のない本をいまのうち読んでおきなさい」と。あるいは、映画や演劇を見に行けとか、スポーツをしろとか、いい恋愛を経験しなさい、とか・・・。
要は、何でもよいのであって、何でも真摯に一生懸命に経験することが、必ず、後に自分の専門とする分野にも生きてくる、そういうものなのである。