エスカレーターに関する規範について
社会における規範とは何か、とか、なぜこの世の中に規範なるものが存在するのか、とか、なんともコムズカシイ問題を考える上で、われわれが日常利用するエスカレーターは、実に興味深い題材をいくつも提供してくれる。
ご存知の通り、関東では、エスカレーターに乗ると左側に寄り、右側を空けるという作法が成立している。この作法をみんなが守ることによって、急いでいる人が右側を通って追い越していくことができるようになっている(←関西ではこれが左右反対であるという話もよく知られているが、今日はその問題はおいておく)。
さて、こんな作法は、昔は存在しなかった。つまり、昔は、誰も、エスカレーターに乗っているときに人を追い越そうなどとは、思いもよらなかったのである。
ということは、この話は、エスカレーターについての規範がいまと昔とで、大きく変化したことを物語っている。ここでいう規範とは、「社会の中で、人々があまりに自明だと思っているので、知らず知らずのうちにそれに従ってしまうもの」、という程度の意味である。
では、なぜ「エスカレーターでは追い越すものではない」という規範から、「エスカレーターでも追い越してもよい」という規範へと、変化したのだろうか。ボクが思うに、その理由は日本人の社会生活が忙しくなったからとか、あるいは最近の日本人が前よりせっかちになったからということではなく、単純に、日本の平均的なエスカレーターの距離が長くなったことに関係している。
実際、一昔前までエスカレーターはどこにあったかというと、それはデパートの中にしかなかった。デパートの中のエスカレーターは、階と階とを結ぶ短い距離のもので、人は追い抜こうなどと考える余地もなく、あっという間に着いてしまう。
しかし、どこの駅にもエスカレーターが設置されるようになり、しかも地下鉄が増え、地下数十メートルから数百メートルにまで届くエスカレーターができるようになって、日本の平均的エスカレーターの距離はぐんぐんと長くなった。そうした中で、ずっと立ったまま、人を追い抜けないままでいると、急いでいる人にとってはなんとも効率が悪い。そこで、「追い抜いてもよい」という規範が自然と生まれ、それに従って上記の作法が確立されるようになったのである。
さて、ここまでだけなら、社会の規範には何らかの合理的根拠があるということを示唆するひとつの物語りとしてめでたく完結するのであるが、実は、話はここでは、おわらない。
たしかに、適度に長いエスカレーターであれば、人を追い越させるために片側を空ける作法は効率的であるが、最近一部の駅に設置されているような、気の遠くなるぐらい長いエスカレーターでは、いくら右側が空いていても、追い越そうとする人はほとんどいない(なぜなら、一度右側を選択すると、その人はずっとその気の遠くなるエスカレーターを登り続けなければならないからである)。実際、ボクのよく利用するみなとみらい駅の長いエスカレーターでは、作法が確立しているがゆえに、誰も右側には乗らないでいる状況が毎日毎日繰り返されている。
ここでわれわれが目の当たりにしているのは、規範の存在がちっとも合理的な結果を生んでいないという事実である。なぜなら、左側だけでなく、右側にも人が立てることが許されるとしたら、みなとみらい駅のエスカレーターはもっと効率的に、今よりも2倍の人を同じ時間内に運ぶことができるはずだからである。