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ラジオと人生経験の外生性について

この前、昔カリフォルニアで聞いたラジオ局のことを書いたが、つい先日、出張先のカナダでCBCラジオを聞いていたら、次のような話題が語られていた。ウォータールー大学(オンタリオ州)には、学生たちが1970年代からやっている有名なラジオ局がある。このラジオ局は、毎年学生たちが授業料に11ドルを上乗せしていることによって運営されている。この局で働く多くの学生が、その後各地の民間ラジオ局に就職したりするのだそうである。しかし、最近このキャンパスラジオが本当に必要なのか、という議論が起こっている。だいたい、どのくらいのリスナーがいるのかは把握しようがないし、学生たちの利益になる情報ばかりをラジオ局が流しているわけでもない。ipodで音楽やニュースまで聞けるようになっている時代に、キャンパスラジオなんか時代遅れだ、などという極論もある。で、さんざん議論された結果、「レファレンダム」つまりは「全住民(=全学生)投票」をやって、このラジオ局を存続させるかどうかを決めようということになった。レファレンダムをやろうと言い出した学生がスタジオに来ていて、インタヴューに答え、「僕はどちらでもいいんです、とにかく学生たちの意思で決めればいいとおもって」といっていた・・・・。
ボクは、この話を、いくつかの点で興味深く聞いていた。まず、北米では、どこの大学のキャンパスにも、ラジオ局が存在する。そうした局は、結構その地元コミュニティーで、重要な役割を果たしている。このこと自体、とても面白い話である。北米におけるコミュニティーのあり方を、特徴的に物語っている気がする。ひるがえって、東京に一極集中している日本では、大学にひとつずつラジオ局があったら、東京ばかりにキャンパスラジオが多くできちゃって大変なことになる。それから、時代が変わって、こうしたラジオ局がいま存続の危機に立たされているというのも面白い話である。ウォータールーだけでなく、きっといくつかの大学のラジオ局も、似たような状況に追い込まれているのではないか、と思う。そして、レファレンダムをやって決着をつけよう、というのも、非常に面白い。北米では民主主義がよく根付いているなあ、とあらためて思う。日本の大学で、いま全キャンパスを通じてレファレンダムをやろうとしたって、おそらく学生組織も整っていなし、できない。
ボクは、ipodで音楽やニュースまで聞けるようになったから、ラジオは時代遅れになる、という議論には同意できない。ラジオの魅力は何かというと、自分が普段聴かない音楽、あるいは得ようとしているわけではないニュースを、向こうから(勝手に)流してくれるというところにある。つまり、自分にとって情報を収集する過程が、「ひと(ラジオ局)まかせ」になっている、それがラジオのいいところなのである。たしかに、ipodには自分のお気に入りの音楽や自分のお気に入りのpodcastからの情報がはいっている。しかし、そればかり聞いていたのでは、自分の「お気に入り」の範囲が縮小均衡してしまうのではないか。自分が選曲したわけではない音楽が流れきて「いいなこれ」と感動したり、自分が聞きたくもないニュースが流れてきて「なんだこれ」と不思議に思ったりする。そういう(専門用語をつかって申し訳ないが)一種の「外生性」が、われわれの経験を豊かにしてくれるものにほかならないのである。