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白洲次郎

飛行機の中で、前から読みたいと思っていた白洲次郎さんの『プリンシプルのない日本』(新潮文庫)を読んだ。期待していた通り、そこに描かれている彼の生き方はとても魅力的であった。また、政治的な主張においても、とっても納得のいくことばかりおっしゃっていたことを知って、感動した。いや、感動というよりは、「ああ、こういう人が日本にもいたんだ」と安堵の念をもった、という方が正確かもしれない。
一番すごいと思ったのは、戦争中に「勝ち目はない、東京もいずれすぐ焼け野原になる」と考え、さっさと疎開して農民生活をするところである。自分に与えられたその時々の状況の中で、考えられること(あるいは考えるべきこと)を論理的に考え抜こうとする態度、そして結論を迷わず行動に移してしまう実行力が素晴らしいと思った。
それから、人間を互いに尊敬しあう基本的な礼儀の大切さが日本に欠けているという観察、これにも共感した。たとえば、イギリスの旧貴族はいなかに大きな家を構えていて、その領地の中に村がいくつかある、というようなことがある。≪その田舎道を旧城主の子供が歩いている、向こうからその領地内の小作人のおじいさんが歩いてくる、そういう場合の子供が年長者に対する態度は、実に立派なものだ。ちゃんとミスターづけで、「グッド・モーニング・ミスターだれそれ」とやる。片方も丁寧に「グッド・モーニング・ロード」と挨拶する≫。それに引き換え、日本ではとんでもない勘違いが横行している、と。日本の旧名家などでは、子供がまわりの人たちに威張り散らしている。≪銀行の頭取だの、社長だの、大臣だのの子供が、親父の主宰するところに働いている大人に対する態度も実に言語道断だ≫(23-24頁)。 こういうことについての「教育」(学校で教えることではなく、家庭で教える教養や素養のこと)がなってないという主張も、まったくその通りだと思った。
しかし、こういう個々の主張や観察よりも、白洲さんの書いたものを読んでボクが共感したのは、日本においてバイカルチャーな人、つまり日本のこともそれ以外の国のことも両方知ってしまった人が持つ根源的なジレンマのようなものである。たとえば、上の話でも、イギリスのことを知らなければ、いかに日本の旧名家の子供たちがダメであるか、あるいはいかに日本には基本的な礼節みたいなものが欠落しているかを実感できない。それを説明しようと思って(白洲さんのように)「例えば、英国では・・・」という言い方をすると、たちまち「外国カブレ」と批判をうける可能性がある。いや、下手をすると、「なにいってんだ、日本ほど礼儀正しい文化の国はないんだ」などと、外国に一度も行ったこともない人から反論されてしまうのである。
で、二つを知っているバイカルチャー人間は、一つしか知らないモノカルチャー人間に絶対に勝てない。なぜかというと、モノカルチャー人間には相手のいうことが理解できないが、バイカルチャー人間には相手の主張がどこに由来するのかがよく見えてしまうからである。ということは、この二種類の人間が相対すると、バイカルチャーな方が相手の土俵に降りてこない限り、論争自体が成立しない。つまり、論争の出発点においてすでに、バイカルチャーな人間はモノカルチャーな人間に譲歩しているのであって、それゆえ負けるしかないのである。ボク自身、何度もそういう場面に遭遇しているので、今回読んで感じたのは、きっと白洲さんもそうしたバイカルチャーのジレンマを抱えていたにちがいないという連帯意識のようなものであった。もっとも、白洲さんは、そんなジレンマを突き抜けてしまうような、ものすごいパワーを持ち合わせていたようである。なんともうらやましい。