西澤家にて蕎麦を打つ
先週末、同志社大学で会合があった帰りに、西澤先生のお宅を訪問した。
西澤先生は、イェール時代のボクの先輩である。どちらかというと、しっちゃかめっちゃかな人生を送っているボクを、奥様ともども、いつもやさしく見守ってくれている。いやはや、感謝の言葉もない。
いつも通り今回も暖かくアットホームなもてなしをしてくれたのであるが、翌日曜日には、ナント、ナナナント、蕎麦を打つことになった。活動的な奥様は、とっくに出かけている。もちろん、お子様たちは、それぞれの用事でいない。というわけで、そう、ボクと西澤先生の二人で、お昼用の蕎麦を打つことになったのである。
西澤先生は、前にも何度か経験があるらしい。
「外国からのお客さまが来ると、喜ぶんですよ」。ふんふん。
「粘土みたいなもんでね。子供の頃にかえった感じで楽しいんですよ」。なるほど。
「それにね、自分で作るから、まずくても文句いわれないでしょ」。←???
このあたりの発言に、西澤先生独特の合理的ユーモアを感じる。
まず、石鹸で手を爪の中までよく洗う。次に、蕎麦打ち用具5点セット、すなわち板と臼と棒、それに包丁と包丁に合わせて使う木片(←専門用語があるのだろうけど知らない)をおもむろにテーブルの上に広げる。
テキストは、ベターホーム出版局の『初めて打つ蕎麦・うどん』。これをちらちらとみながら、慎重に粉の量に見合う水を用意する。
蕎麦打ちは、水の量が命である。こねながら、すこしずつ水を足していく。ボクもこねるのを手伝う。「手際よくやってください」とテキストに書いてある。時間をかけると、乾いた部分ができてしまうからで、一度乾いてしまうとあとから水を足したりすることはできない。ここが全工程の中でおそらくいちばんむずかしいところである。それから、「パンを作るように伸ばしてはいけない」と書いてある。あくまで、内へ内へとこねていくのである。
艶が出てきたところで、今度は薄っぺらに伸ばす。これは、西澤先生に任せた。
そして、いよいよ蕎麦を切る段になる。ここは、ボクの出番である。
木片に包丁をあわせ、ストンと落とすように切る。包丁をほんのわずか斜めに倒し、その圧力で1ミリ程度木片が動く。そしてまたストンとやる。これを繰り返す。案外、慎重になりすぎると、太さが一定に切れない。リズムにのってやるのがコツである。悦に入って、神田まつやの主人になった気分であった。
自分で打った蕎麦は、たしかに美味しかったです。
西澤先生、どうもごちそうさまでした。
えっ?では、うちでもやるかって?実は用具5点セットを見たときは、いいなあ、うちでも揃えてみようかな、という気になりました。しかし、やってみると、かなり労働集約型作業だということがわかりました。そうねえ、たしかに客人をもてなすにはいいかもしれないが、自分ひとりでやるかといわれると、どうかなあ・・・。
ところで、なんで蕎麦を「打つ」というんですかね。行き着けの、早稲田の蕎麦屋の主人にこの前聞いたら、「私も知りません、今度調べておきます」だってさ。オイオイ、大丈夫かなあ。