数独、あるいは趣味の兼ね合いについて
誰が考え付いたのか知らないけど、数独、楽しいですね。
いま、結構ハマッテおります。
第一に、数独は、とてもよい暇つぶしになる。ボクは日常生活のなかで別に暇をもてあましているわけではないけれども、電車や飛行機を待っているときなど、どうしても時間が余ってしまうときがある。そういう時に、手頃な余興になる。
第二に、数独をしていると、自分の頭がよくなるのではないか、ボケ防止によいのではないか、と思うことができる。なにしろ、論理的に考えないと解けない。ひとつ間違えると、必ず後になってその間違いが発覚する。「あちゃー」と、その瞬間、やり場のない怒りと悔しさがこみ上げてくるが、そのあと冷静になって、どこでどう間違えたのかをたどるのも、結構楽しい。
ただ、本当に頭の体操になっているかといわれると、ちょっと怪しいかも、とボクは最近疑っている。すこし続けてみるとわかるが、数独の解法にも、いくつかのパターンがあって、あるレベルまではそれらのパターンに従えば、すらすらとできてしまう。そのパターンさえ理解すれば、実はあんまり頭を使わないのである。もちろん、レベルの高い問題は、あまりパターン化されたやり方ではできない。ちょっとしたイノヴェーションを、その都度必要とするようである。「ようである」などという言い方をするのは、恥ずかしいかな、ボクにはまだそれほどレベルの高い問題を解くことができないからである。しかし、数独の道を極めちゃうと、もしかすると、やはりそこにもパターンが出てくるのではないか、と思っている。
レベルの高い問題をやりはじめると、ボクのような未熟者では1時間や2時間、あっという間にたってしまう。すると、手頃な暇つぶしのつもりでやりはじめたのに、そうではなくなってしまっていることに気付く。シャカリキになって数字とにらめっこしている自分を発見するのである。「そんなにむずかしい問題に挑まなければいいではないか」といわれるかもしれないが、すらすら解けてしまうような問題ばかり解いていたのでは楽しくない。なんというか、この兼ね合いが、非常にむずかしい。
これは、なにも数独の問題だけではない。ガーデニングも料理も、あるいは俳句作りもスポーツもみんなそうであるが、趣味を趣味として楽しむ、というのは結構むずかしいことである。毎年同じ花の球根ばかりを植えるのでは飽きてしまう…いつも自分と同じレベルの人とだけテニスをしていたのでは面白くない…などというように。
世の中には、多趣味の人がいる。そういう人は、きっと、ひとつのことばかりを趣味にしていると飽きてしまうので、いくつもの趣味を同時並行的に楽しむことで、飽きることから解放されたいと思っているのであろう。
そういえば、ボクの尊敬するある研究者が、「あなたの人生の目的は何ですか」ときかれたときに “not to be bored” と答えた、という逸話がある。その人は、学問上も、実に広い分野にわたって業績を残している。そして、その人は、学生と一緒になってバスケもするし、料理もうまいし、ジャズにも詳しいし、自分でサックスだって吹けちゃうのである。