理由と原因、あるいは記憶の科学について
知っている人は知っているが——というのは、ボクは一時期ツイッターをしていて、このことについてつぶやいたことがあるからなのであるが——、ボクが去年読んで最も感銘を受けた本の一つは、Thomas Scanlon のWhat We Owe to Each Other (Harvard University Press,1998)という本である。ボクがこの本およびその著者をどのように知ったかというと、ボクの愛読しているある別の本に、その一節が引用されていたからである。その一節とは、火山の噴火をめぐる以下のような問答であった。
I might ask, “Why is the volcano going to erupt?” But what I would be understood to be asking for is an explanation, a reason why the eruption is going to occur, and this would not … take the form of giving the volcano’s reason for erupting….” (p. 18)
ボクらは、「火山はなぜ噴火するの?」という質問と「あの人はなぜ怒っているの?」という質問とを、同じように考えることはできない。人が怒ることについては、その人自身に由来する理由reasonがいろいろあると考えられる。「あの人が怒るのも、無理ないよな」と感じる時、ボクらはその怒りを文字通りreasonableと考えているわけである。一方、火山が噴火する「理由」が、火山自体に由来することはありえない。もちろん、火山が噴火することには、たとえばマグマの動きといった「原因」causeはある。いや、というより、火山が噴火することに何らかの「理由」があるとすれば、それは、火山が噴火する原因でしかありえないのである。
しかし、人間の態度や行動についての説明においては、「理由」と「原因」とは必ずしも一対一の対応をしない。そして、この「理由」と「原因」の混同が、いろいろなところで起こっている気がする。
たとえば、最近の脳科学は、「怒る」といったような人の感情(あるいは、喜び、痛み、愛情、美しいものに魅かれる、などなど)を、脳の中の化学的な反応と関係付けようとしている。しかし、そうしたリサーチで明らかにできるのは、「原因」であって「理由」ではない。人が人を好きになったり、人が絵画をみて感動したりすることには、脳の中で○○が分泌されているからではなく、あくまでその人自身に由来する「理由」がある。○○の分泌が解明されたところで、なぜ櫻井君でなく大野君を好きになるのかという「理由」、つまりなぜ櫻井君ではなく大野君を思い浮べると○○が分泌されるのかという「理由」が解明されるわけではない。
このようなことを考えていたら、先日次のような記事を目にした。《大脳で記憶が定着する際には、脳神経細胞同士の接続部分「シナプス」の微細な構造が「ガンマアミノ酪酸(GABA)」と呼ばれる伝達物質の働きによって縮小、整理されることが分かった。東京大大学院医学系研究科の院生葉山達也さんや野口潤助教らがラットの実験で発見し、25日付の米科学誌ネイチャー・ ニューロサイエンス電子版に発表した》(時事通信8月26日付け)。理系音痴のボクにはまったくわからないが、超一流の雑誌に掲載されるくらいだから、この研究成果はきっと素晴らしい発見であるにちがいない。
しかし、この記事には「記憶定着、詳細な仕組み解明」という見出しがついている。これはいくらなんでも、大げさだろうと思う。記憶が定着する「原因」がわかったところで、記憶が定着する「理由」を解明したことにはならない。ボクら人間は、ある特定のことを覚えておこう、あるいは特定のことを覚えていられる、さらにはある特定のことを覚えておかねばならない「理由」をもっている。こうした理由は、われわれ人間に固有に由来する。そのようなものを実験室のラットはもっていない(多分)。それに、そもそも「記憶」などという概念自体、人間が作り出したものなのであるから、記憶の定着する「詳細な仕組み」が、人間以外を観察することから「解明」されるとは、ボクにはまったく思えないのである。