院の指導について
IPSA(世界政治学会)で、自分よりも少し若い年代の多くの研究者たちと食事をする機会に恵まれて、自分がスタンフォードで受けた教育のことを思い返していた。今、自分が院生を指導する立場になって、たとえば論文を早く公刊しろというような実践的なアドバイスを強調すべきか、それとも研究者としての理想をあくまで追い求めろと強調すべきか、いろいろ悩む。しかし、まあ、自分のやれることは、自分自身にとってよかったと思えることを基本にしていく以外ない。
この前、ある身近な院生に、ボクのアメリカでの経験をしゃべったら、とても興味深くきいてくれた。それで、その一部をこのブログで紹介することにしたいと思う。
いま振り返って、ボクにもっとも影響を与えてくれたのは、まちがいなくGeoffrey Garrett先生である。ボクの最初のメジャーなパブリケーションになった論文の第一稿(それは最終稿とは似ても似つかなかった)をみて、彼はたしか「kernel」 (of good paper)という言葉を使って、それを進めるよう仕向けてくれた。しかし、ギャレット先生は同時に、その原稿が真っ赤になるくらい、細かな添削もしてくれた。そう、文章の順番をこことここを入れ替えろとか、一字一句、この単語よりこっちの単語の方がよりいいだろう、というレベルまで。ボクにとっては、この経験がとてつもなく大きかった。自分自身を一人前の研究者にしてくれたのは、このときの彼の指導だと、今でも思っている。ボクは、この経験をそのまま踏襲して、日本でも、自分がアドバイザーをつとめる院生の論文には、このように細かな添削をすることにしている。
その論文をジャーナルに投稿する直前のことであるが、ボクとギャレット先生がJudith Goldstein先生の部屋でだべっていると、そこにDouglas Rivers先生が入ってきた(当時ゴールドスタイン先生の部屋は一種の溜まり場だった)。で、ギャレット先生が、マサルはこれから論文を投稿しようとするんだよとRivers先生にいう。たまたまボクがそのときもっていた論文のコピーを見せると、Rivers先生は最初のページだけを一瞬みて「よく書けているが、このイントロはもう一度書き直した方がいい。なぜなら、ここには論文のファインディングの要約がないから」とだけいって、出て行った。もちろん、ボクはそのアドバイスに従って、書き直すことにした。ボクは、これがプロの目というものなんだなあ、と恐れ入ってしまった。
まったく違う感じのアドバイスだが、ボクはStephen Krasner先生にもとてもお世話になった。ボクは、彼のオフィスアワーをつかって、自分が考えついた論文のアイディアを何度ももっていった。すると、話が2分か3分かもしないうちに、彼は「それは多分無理だね」というダメだしをする。データが集まらないだろうとか、インパクトが少ないとか、もうだれそれがやっているとか、理由はいろいろ異なるのだが、ボクの前にまさに「壁」のように立ちはだかって、次から次へとボクの構想を退けるのである。この厳しい指導も、ボクにとってはとてもためになった。そして、この経験も、いまボクは日本で踏襲している。つまり、院生たちにとって「乗り越えなければならない壁」となって、見込みのないプロジェクトにははっきりとダメだしをする、という役割である。