保守主義、あるいは「の」の問題について
知っている人は知っているが、先日、非常に光栄なことに、あるテレビ番組で安倍晋三元首相に直接お話しをうかがう機会があった。安倍さんといえば、自民党の政治家の中でも保守派として知られている。で、たまたま、話しの流れで、日本の保守勢力の再編・再構築ということに触れられたので、ボクは、いつも訊いてみたいなあと思っていた素朴な質問を彼にぶつけてみることにした。「日本の保守主義って、何なのですか」と。そしたら、安倍さんは、短い時間ではあったけども、とても丁寧にお答えくださった。
さて、その質問をしたときには自分でわかっていなかったのであるが、ボクは、あとでそのやりとりの部分をビデオで再生して、「日本の保守主義とは何か」というボクの質問そのものがいかに曖昧であったか、ということに気づいた。いや、というより、安倍さんの丁寧なお答えのおかげで、自分の発した質問のワーディング自体が、「日本の保守主義」なるものについて深く知的に考えることをさまたげるようになっている、ということにおそまきながら気づいたのである。曖昧さは「保守主義」にあるのではない。つきつめると、それは、日本語の「の」の問題なのである。
たとえば、政治学の中でも、ボクの専門は「日本政治」ということになっている。これは、「日本の政治」を縮めた名称であるが、英語ではそれをふつう、Japanese Politicsという。前にカナダの大学で教えていたときも、Japanese Politicsというタイトルの授業をひとこま担当していた。しかし、ボクはいつも、このJapanese Politicsという名称が気になっていた。別に、日本に独特の――そう、外国人研究者の本のタイトルのような――Japanese Way of Politicsがあるわけはない。政治は政治、politicsはどこへいってもpoliticsだろう、と思っているからである。だから、本来、授業の名称は、Japanese Politicsではなく、Politics in Japanでなければならない。Japanese Politicsといった途端に、日本に固有の政治のあり方がある、ということを暗黙の前提として受け入れてしまっている、と気になっていたのである。
さて、ひるがえって、「日本の保守主義」というとき、それはJapanese Conservatismなのか、それともConservatism in Japanなのか。日本語の「の」は、この区別をまったく曖昧にしてしまう。もし、日本「の」保守主義が、日本に固有の政治思想・政治運動を指し示すものであるならば、それは前者だということになる。一方、日本「の」保守主義が、どこの国にもある普遍的な保守主義に通じる政治思想・政治運動だということなら、それは後者だということになる。日本「の」(!)保守主義を論じる際、この二つの区別には意識的でなければならない。この二つの間に、矛盾ないし緊張関係が成立することも、十分考えられるからである。
ボクがおそまきながら、この「の」の問題に気づいたのは、安倍さんの丁寧なお答えが、両方を見事にカバーしておられたからである。すなわち、エドモンド・バークに通じる後者の(普遍的な)保守主義についてと、日本の文化や伝統を重視する前者の(独特な)保守主義についてと、両方をちゃんと短時間で説明してくださったのである。おそらく、安倍さんは、ここでボクのいう「の」の問題を、十分認識しておられたのであろう。
「の」の問題は、やっかいである。それは、実際、いたるところにある。たとえば、リンカーンの有名な「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉を最初に聞いて、一番めの「人民の」の意味がよくわからないという人は意外に多いのではないだろうか。「人民の政治」も「人民による政治」も、どちらも所有格を表わしているようだからである。しかし、英語で聞くと、それが、of the people、すなわち人民に対しての政治なのだ、ということをより明確に認識できるようになる。実は、はずかしながら、ボク自身、結構大人になるまで、この意味を良くわかっていなかったのである。