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それでもボクがいまの日米関係に楽観的な理由

普天間基地問題をめぐる対応をめぐって、鳩山首相が批判されている。オバマ大統領に「トラスト・ミー」といいながらその信頼を裏切り、日米同盟にひびが入ったとか、両国関係はいまや危機的状況にあるとかいった悲観論がメディアにあふれかえっている。しかし、これらはメディア特有の悪しきセンセーショナリズムである。ボクは、(先日出演したテレビ番組の中でもいったことだが)日米関係に、基本的に楽観的である。今日は整理して、その理由を述べたい。
まず第一に、現代における国家と国家との関係は、リーダー間の個人的信頼や感情によって左右されるものではない。外交官出身の専門家(を称するひと)たちは、国際関係における外交の役割を重視したがるが、個々の政治家や官僚の手腕が国家と国家の関係に影響を及ぼしたのは、はるか昔、メッテルニヒの時代である。現代における国家間関係は、構造的な(=非個人的な)要因、すなわち地政学的状況とか経済相互依存、さらには文化・人的交流の程度といったものによって決定付けられているのであって、そうした要因が鳩山政権になったからといって一夜にして変わったわけではけっしてない。
もちろん、国家と国家との関係だから、自分の側の交渉立場を有利にしたいという思惑は日米どちらにもつねに働いている。たとえば、先日ギブズ報道官が、コペンハーゲンでオバマ大統領は鳩山首相に会わないといったとき、彼はそれを「オバマが会談を拒否した」と日本側が解釈してくれれば儲けものという計算のもとに、いったのである。彼の発言を素直に受け取れば、時間がないから、またこの前会ったばかりだから、会う必要はないといっているに過ぎず、その発言のどこにも、日米関係が損なわれたなどと解釈しなければならない要素は見当たらない。にもかかわらず、日本のメディアは、「門前払いを受けた」などと悲観し、騒ぎ立てている。まんまとアメリカ側の交渉術中にはまっているようなものである。
もうひとつ、これもきわめて基本的なことだが、日米の相互に対する関心のレベルには、ギャップというか、非対称性がある。日本では毎日のように「日米」が取りざたされているが、アメリカでは「普天間」が何たるかを知っている人はほとんどいない。アメリカにおいて、日米関係が悪くなったとことさら強調し、(ボクからいわせると)必要以上に日本の悲観主義を煽っているのは、アメリカで「例外的存在」である知日派、とりわけオバマ政権になって居場所をなくした共和党系の知日派である。日米関係の危機をセンセーショナルに語ることが自分たちのメシのタネになるという構図がここにあることは、いうまでもないであろう。
いつも授業でいうことだが、社会科学には、予測するという行為自体が予測の対象そのものに影響を及ぼしてしまう、というやっかいな自己言及性がある。かつて日本に深刻な石油危機が襲ったとき、多くの経済学者は悲観論を唱えたが、あるひとりの評論家だけは楽観論で押し通した。当時の日本は企業も消費者も涙ぐましい努力をして、石油ショックをなんとか乗り切ったわけであるが、このとき正しい予測をしたのがこの評論家であったとはいえない。やはり正しかったのは、悲観論を唱えた学者たちの方だったというべきである。なぜなら、もしすべての専門家がこのとき楽観論を唱えていたら、おそらく誰もが油断して、日本経済はそのまま泥沼に陥っていただろうからである。
石油ショックのときは、本来正しかった悲観的予測が、(予測の対象である)経済に影響をあたえ、結果として、その予測がはずれるという幸運な展開を生んだ。ボクは、今回の日米関係は、ちょうどその反対ではないか、と危惧している。つまり、本来正しくない悲観的予測が、日米関係に影響をあたえ、結果としてその予測が当たってしまうという不幸な展開を生んでしまうのではないか、というように。
だからこそ、いま必要なのは、正しい楽観的予測なのである。