密なることとは
日米の間に核の持ち込みや沖縄についての密約があったそうである。自民党政権は長年そんなものはないと否定してきたが、政権交代を成し遂げた民主党の岡田外相がそれを肯定することになったと報じられている。
また、官房機密費なるものについても、最近のニュースのなかで、よく取り上げられている。こちらも、民主党政権になり、その額とタイミングが平野官房長官によって明らかにされていた。ただ、官房機密費は、新しい政権もこれから使っていくのだそうである。平野さんは「(費用の)性格上、使途をオープンにすることは考えていない。私が責任を持って適切に判断していく」と述べ、民主党政権でも使途を非公開とする意向を示した、と伝えられている。
ボクは、個人的には、民主主義という政治体制を選択している限りは、外交や政治については、すべてのことを公開していくべきだと考えている。もしそうでないならば、主権者である国民をさしおいて、「特権的に」情報をもっている人がいてもいいと認めることになる。そのような政治体制は、定義上、エリート主義的もしくは権威主義的であって、民主主義的ではない。ただ、ボクは、別にいますぐに公開しなければならないと思っているわけではない。いつか年月がたったら、すべてを公開する、すべてを淡々と公開するということにしておけば、それでよいと思っている。
こういうことを主張すると、必ずといっていいほど、一部の外交専門家とか政治評論家とかを自称する人たちから、「外交や政治というものには、秘密がつきものだ」という反論が返ってくる。こういう人たちは、自分自身が外交官や官僚出身のエリートだったりするので、たいていしたり顔というか、上から目線で、「外交や政治は専門家にまかせておいた方がベターなんだよ」という言い方をする。ま、こういう人たちはまともに国際関係論とか政治学を勉強したことがないのだろうけど、「秘密」外交を展開した方が国益に適うかどうか、あるいは情報をオープンにし「観衆費用(audience cost)」を高めることで相手に対する信頼性を高めることになるのではないか、といった点については、すでに膨大な理論および実証の学術的蓄積がある。そして、今日までのところは、公平にいって「どちらともいえない」というのが結論である。つまり、必ずしも情報公開をした方がよいともいえない代わりに、秘密を保つことが外交や政治にとっては必要であるなどと単純に考えることはけっしてできないのである。
さて、ボクが今日いいたいことは、実はこの先にある。百歩譲って、外交や政治には秘密が必要だというエリート主義的立場にも一理あるとしよう。それでも、やっぱり、いまニュースで話題になっている日米密約や官房機密費については、すべてさらけだして公開すべきだ、とボクは思う。なぜか。それは、秘密であるということは、単にその内容が秘密であるだけでなく、そのような秘密が存在するという、もう一段高次のメタレベル情報も秘密でなければ、意味がないからである。たとえば、(あんまりいい例ではないが)夫が妻に隠れて浮気をしているとする。この時、夫は「誰といつ、どのように浮気しているか」ということだけを秘密にするのでは意味がない。夫は、そもそも「浮気をしている」などということを妻に予想だにさせないぐらいに、秘密にしておかなければならないのである。たとえ「誰か」を特定できなくても、「誰かと浮気している」と思われた瞬間に、その秘密はバレタと思わなければならない。
だから、「官房機密費」などという名前自体、滑稽な定義矛盾であるというほかない。「機密費」という項目のついた費用が予算に計上されていることが、機密であるわけがないのである。