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一緒に食事することの意義

ボクの大学院の指導では、修士と博士の学生を合わせて、2コマ続けて授業をしている。今年は、2限と3限にやっているので、その間には昼休みが入るが、ボクらは、弁当を配達してもらって、一緒に食べることにしている。食事を一緒にすることで、研究室の中の連帯感が強まる感じがしてよい。勉強以外のことでも、会話ができる場がそこに出来上がるからである。
友人から聴いた話だが、日本のある有名な二枚目男優さんはけっして自分が食事しているところを他人に見せないのだそうである。ロケでもスタジオでも、どこへいっても食べるときは一人きり。スタッフや共演者とも一緒に食べることはしないし、もちろんマスメディアはシャットアウト。なぜかというと、食べるというのは、その方にとってプライベートな行為だからだそうである。ま、そういわれてみれば、むしゃむしゃと音をたてて食べるクセがあることやどのおかずを食べ残しているかがわかっちゃったりしたら、男優としてイメージダウンにつながる可能性がある。ましてや、ホウレン草が歯の間に挟まっているところを必死で取ろうとしている表情が画像で報じられたりしちゃったら(←別にホウレン草でなくてもよいけど)、取り返しがつかない。食べるという行為の中に、本当は他人に見せたくない要素がいろいろと入っていることは、確かである。
だから、人と一緒に食事をするということは、プライベートな空間を共有することで、その人と親しくなりたいというメッセージを送っていることを意味する。院生たちへの指導においても、同じ弁当を食べることで、場の雰囲気がなごんでいることは疑いない。
しばしば、デートが食事を介して行われるのも、やはりそうした食事の効用があってのことである。もちろん、食事を介したデートには、いろいろな段階というかハイラーキーがある。それゆえ、どういう食事をするかによって、どういうデートにしたいのかについての重要なメッセージを相手に伝えることができる。
たとえば、午後のコーヒー&デザートに誘われたということは、相手はまだまだ「様子見」を決め込んでいるだけだ、と思った方がよい。コーヒー&デザートは、たとえそのようなデートがあったとしても、あとから「そういうつもりじゃなかったの」と平気でいえるような、デートハイラーキーの最下層に位置する段階でしかない。コーヒー&デザートに誘われたくらいで、舞い上がることは禁物である。
おそらくもっとも重要なのは、ランチデートである。はじめてランチに誘われたなら、準備は周到を尽くさなければならない。そこでは相手から、将来発展する可能性があるかを終始真剣に「テスト」されている、と思った方がよい。その場の成績次第ではさらにディナーへと発展するかもしれない。成績が悪ければ、もちろんそうした展開はない。ランチに誘われて、いつまでたってもディナーに誘われなかったら、それは「不合格」をもらったと思って、あきらめるしかないのである。
では、ディナーを一緒にするというのはどうか。これはもう完全に「脈あり」である。すくなくともディナーに誘った側は、その気満々にまちがいない。だからこの場合、問題は受ける側である。その誘いを受けてしまったら、それはあとから「そういうつもりはなかったの」というわけにはいかないような、デートである。だから、ディナーとは、誘うよりも誘われる方が、大きな決断を迫られていると思った方がよい。
悲しいことに、デートのハイラーキーは、登っていくだけのものではない。ときおり「ディナー」から「ランチ」への格下げが起こる、ということもある。あれれ、この前はディナーを一緒にしたのに、などと思ってももう遅い。それは、もう二人の間には将来がなくなりました、というメッセージを送られていると解さなければならないのである。