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ハイドンの無尽蔵

この世の中には、「無尽蔵なもの」は、なかなか存在しない。
たとえば、ボクのような凡人には、ときどき「お金が無尽蔵に使えるほどあったらいいな」とか、「ワインが無尽蔵に飲めたら・・・」、あるいは「ポテトチップを無尽蔵に食べられたら・・・」などという妄想が訪れる。
しかし、当然のことながら、誰だってお小遣いには制限がある(←パリス・ヒルトンを除いては)。最近のボクだと、ワインボトル半分飲んだら酔っ払ってしまうし、チップスターのカンをまるごと一気に食べつくしたのは、もうかれこれ10年ぐらい前の話になってしまった。
無尽蔵であることは、現実ではなく、理想郷というか、遠い憧れの世界の話なのである。
ところが、最近無尽蔵に出合った。少なくとも「無尽蔵に近いもの」に遭遇してしまった。それは、ハイドンの音楽である。
ハイドンは、まぎれもない天才である。交響曲も弦楽四重奏曲も、それ以外の音楽も、実にたくさんの作品をこの世に残していってくれた。
ボクが最初にハイドンをいいと思ったのは、随分昔に、ある人から薦められてチェロ・コンチェルト2番の第2楽章を聴いたときであった。それは、ゆったりとして、ところどころに沈黙があって、まさに癒しの音楽である。疲れた朝に電車の中などで聴くと、間違いなく心地よい眠りに誘ってくれる。今でも、このコンチェルトはよく聴くが、ボクのハイドン体験は、しばらく長い間そこに留まっていたのである。
しかし、少し前に、あるラジオ番組でハイドンの弦楽四重奏曲を聴いて、ボクはたちまちとりこになってしまった。で、先日ようやく、CDにして21枚からなるそのcomplete setを買ってきた。そう、なんと21枚にびっしり詰まっているのである。
このところ、それを片っ端から聴いている。
音楽を聴く上での「無尽蔵性」(←そんな言葉あるのか知らないが)は、大切である。
なぜなら、音楽というのは、どんな気に入ったものであっても、いつかは飽きる時が来るからである。それゆえ、好きな音楽を聴くことには、つねにジレンマがつきまとう。一方では、「今日もまた○○を聴きたいな」と素直に思う。しかし、もう一方では、「あんまり○○ばっかりきいていると、いいと思わなくなる日がそれだけ早く来てしまうのではないか」と不安に駆られる。それで、お気に入りの曲を無作為にシャッフルしてみたり、ローテーション組んだりというような努力をして、お気に入り状態を長続きさせようとする。
しかし、ハイドンの場合、ボクは不安に駆られることなく楽しめる。
もし飽きるまであるひとつの作品を聴いていたら、きっと一生のうちに、彼のピアノソナタと四重奏曲と交響曲とをすべて聴き終わることはできない、それぐらいたくさん彼の作品があるからである。