正月に考える
みなさん、明けましておめでとうございます。
昨年は、ブログ更新が思うようにできませんでした。
今年は、何とか改善したいと思いますので、変わらぬご贔屓のほどよろしくお願いします。
・・・というわけで、正月を実家で過ごしました。
たまっている仕事を、まあはっきりいってすべてブッチぎり、同僚のT先生やS先生に迷惑をかけながら、原稿を待っているUさんにものすごい後ろめたさを感じながら、それでも今は家族と一緒に過ごすことがプライオリティだと自分にいいきかせて、有意義な時間を過ごすことにしました。
で、誰にでもそうであると思うが、正月という時期は、いろいろなことを考えさせられる時期なんですね。たとえば、ボクのような歳にもなると、強烈に「老いる」ということを意識させられる。自分の年齢を日本人の平均寿命から引いてみたり、働き盛りの男性が突然死をとげる確率はどのくらいだろうかと想像してみたりして、あと何回このような平穏な正月を迎えられるのかをおそるおそる心のどこかで考えている。
なぜ正月はものを考えるようになるのかというと、正月は、まあだいたいの人にとっては休みなので、普段より時間がゆっくり流れているんですね。だから、ついつい、いろいろ余計なことまで考えてしまう。初詣の電車の中で富士山を遠くに望むと、なんか特別な気分になったり、いつもと違った感慨を覚えたりする。あれっ、富士山ってこんなにでかかったっけとか、高層ビルのなかった昔の時代の人は毎日美しいこの富士山の姿を拝むことができたんだとか、だから日本には富士見町なんていう地名がたくさんあるんだとか、どんどんと想像が膨らんでいく。
なかには、ちょいと背筋を伸ばして、元旦には一年の計を立てなければいけないなどと気張っている人もいる。さて今年の目標は何にしようかとかと考えるのは、マットウなことではある。しかし、なかには、今年一年は親切な人でいようとか、今年こそもっといい人になろうなんて、本気で考えている人もいる。ま、そんなこと考えられるのは、そもそも時間に余裕があるからなのであって、正月休みがすぎれば、そんな目標はすぐに忘れ去られる。満員電車に揺られているサラリーマンさんや赤信号をハイヒールで必死で駆け抜けていくOLさんに、今年はもっと親切でいましょうとかいい人になりましょうとかいったって、無理に決まっている。
もちろん、だからって、立派な目標を立てることに意味がないなんていっているわけではないですよ。目標を立てるのなら、正月のような非日常ではなく、日常的世界にどっぷりと浸ってる中からやった方がいいんじゃないですか、と提案しているだけです。
あと、ボクは、正月にさまざまあるフォーマリティ、つまり儀式ばったところが好きですね。元旦には、家族に対しても「明けましておめでとうございます」と挨拶をいい、礼をつくす。毎年同じように、おせち料理をつつき、お雑煮を食べる。毎年行っている神社に、決まったことのように初詣に行く。
人間は変化を求める動物であるが、同時に「変化しない」ということに大きな心の安らぎを覚える。正月なるものを設けて、一年に一度お祝いするのは、そこに理由があるのである。