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      <title>早稲田のちょいわるオヤジ日記</title>
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      <language>ja</language>
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         <title>中毒患者は屁理屈をこねる</title>
         <description>何を隠そう、ボクは、マクドナルド中毒患者の一人である。
毎日食べなければ気が済まない、というわけではない。
毎週食べなければ気が済まない、というわけでもない。
しかし、月に一度ぐらいは、どうしても食べたいときがやってくる。そうなるともう、いてもたってもいられない。食べるまで、食べたいという衝動がおさまることがない。
ボクの場合、その衝動は、たいてい夜にやってくる。どういうわけか、さあ寝ようか、という時間に、突然、やってくる。それゆえ、衝動は、どうしたって次の日まで持ち越される。で、次の日の午前中は、文字通り中毒患者のように、「ああ食べたい」「うーん食べたい」と、念じ続けることになる。
マクドナルド中毒にかかる原因の一つは、「犬も歩けば、マクドナルド」という感じで、実に多くの店舗が展開されていることによる。これが東京に一店舗しかない店だったすれば、「食べたいな」と思っても行くのが面倒くさかったりして、すぐさま諦めがつく。ところが、とくに首都圏では、どこにいようとも、マクドナルドで昼食を取ろうと思えば、取ることができてしまう。だから、食べたいなと思ったが最後、食べるまで、衝動はおさまらない。
実は、つい先日（今年になって初めてのことであったが）、とうとう禁断症状がでてしまった。で、妻に、「ごめん、そういうことなんで」と説明し（←？）、買い出しにいった。
ボクは、マクドナルドでは、かならずビックマックセットを注文する。
その日も、そうすることにした。ただ、その日は、ちょっとした事件が起こった。
かつて、マクドナルドでは、セットのドリンクでジンジャーエールを選べた時代があった。コーラやコーヒーだとカフェインが入っているし、オレンジジュースとビックマックでは、相性がよくない（と、ボクは勝手に思い込んでいる）。ところが、その日、ボクは店員さんに「すみません、もうジンジャーエールはやってないんです」といわれてしまった。
そうか、じゃ、しょうがない、「コーラでいいです」、ということにして、代金を払い、紙袋をさげ、ルンルンと引き返してきた。
さて、家に戻り、ポテトをつまみながら、そのジンジャーエールの話を妻にしたところ、「あら、この前の時も、まったく同じこといわれて、コーラにしてたわよ」と、彼女がいう。
「？」
「物覚え、悪くなってきたんじゃない？」と、彼女は心配そうである。
「ちがう、ちがう。こういうのってのは、いらない情報を、なるべく覚えないようにしているだけのことなんだよ。」
「いらない情報？」
「そう、世の中のどうでもいい情報を、覚えないように、ボクの脳はトレーニングされているのさ。」
「いらない情報ってことはないでしょ？だって、この前のこと覚えてたら、カウンターで同じ間違いをしなくてすんだんじゃないの？」
「いや、いや、そんなことはない。だってだよ、マクドナルドは、もしかしたら、将来、ジンジャーエールのサービスを再開するかもしれないじゃないか。もしそうなったら、ジンジャーエールがないと思い込んで注文すると損した気分になる。だから、この場合、情報を覚えないようにするという方が、よっぽど合理的なんだよ。」
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         <link>http://kohno-seminar.net/blog/2012/01/post_206.html</link>
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         <category>グルメ</category>
         <pubDate>Sun, 29 Jan 2012 23:48:00 +0900</pubDate>
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         <title>梅香亭</title>
         <description>好きだった梅香亭が閉店してしまいました。
長い間、本当にご苦労様でした。
想い出のブログ（2008年12月27日付け）を以下に再録します。

横浜にある、有名な洋食屋さんにいった。
その名は梅香亭。横浜スタジアムのすぐそばにある。レトロの中のレトロ、というお店。その雰囲気にふれるだけでも、行く価値があると思う。なにせ創業は大正時代である。
ストーブが真ん中にドテッとおいてある。椅子や長椅子には、アイロンがぴんとかかった真っ白な布がかけてある。電話のベルも、あの「ジリリーン」という、レトロな響きがする。
ランチ時をさけて、1時半ごろに行ったのだが、ボクのお目当てはハヤシライスであった。ボリュームがあって、コクがあって、そしてアツアツで出てくる。
ところが、ですね、その日、どうもボクには運がなかったようです。
フロアーを仕切る方が、メニューを持ってきて、律儀に説明する。
「いまはカレーはやっておりません。それから、ハヤシは、おそらく、先ほどのお客様でおわってしまいました。」
？「おそらく」？
しかし、「おそらく」であろうとなんであろうと、「おわってしまった」といわれたものを注文するわけにはいかない。ボクは方針転換を強いられて、メニューをじっくり眺めることになった。
そこに、やってきたのは近くで働く（と思しき）サラリーマン。常連らしく、席につくなり「ハヤシライス」と頼んでいる。そしたら、その律儀なフロアーさん、「あの、もしかするとハヤシは先ほどのお客様でおわってしまったかもしれないので、いま聞いてきます」といって、キッチンに入っていった。ところが、出てくるなり「あの、もう一皿できるそうです」と、ニコニコしながらその客に報告している。
オイオイ、それはボクのハヤシライスでしょうが･･･。
ボク、わざわざ15分も歩いてここまで来て、ハヤシライスを食べようとしたのに･･･。
ボクは、一瞬、ボクもハヤシを食べたかったんだけどな、とボソッと言おうかと思った。でも、そう言ったところで、その客とフロアーさんを困らせるだけだし、と思い返し、メニューをさらにじっくりと検討して、結局エビフライを注文することにした。
狭い店なので、そのとき中にいた周りのお客さんたちは、だれもが起こったことの一部始終を見届けていた。だから、もしボクが、自分もハヤシを食べたかったのになどと言っていたら、ボクには「ハヤシが食べたかったのに、食べられなかった人」というレッテルが貼られてしまうはずであった。いや、もしかすると、みんなは、ボクをバツの悪いヤツとして笑いもの扱いするかもしれない･･･。
だから、ボクは、わざと平然を装い、「ハヤシなんて、別に食べたかったわけじゃないからね」というような顔をして、エビフライを頼んだのである。
さて、ボクがエビフライを食べ始めると、そこにもう一人、今度は若い女性のお客さんが入ってきた。この方も常連らしく、入ってくるなり「ハヤシライス」と注文している。
そしたら、再びその律儀さんは、「あの、もしかするとハヤシは先ほどのお客様でおわってしまったかもしれないので、いま聞いてきます」といって、キッチンに入っていった。
そして、彼がまた嬉しそうにいったのである。
「あのもう一皿、できるそうです、これが最後です。」

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         <link>http://kohno-seminar.net/blog/2012/01/post_205.html</link>
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         <category>グルメ</category>
         <pubDate>Sat, 14 Jan 2012 08:20:34 +0900</pubDate>
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         <title>2011年はどういう年だったか</title>
         <description>みなさま、新年おめでとうございます。

年末や年始に「どんな一年だったか」ということを考える人が多かったと思う。
テレビでもラジオでもそのような放送をしていたし、雑誌でもそのような特集をしていた。
「どんな一年だったか」ときかれて、それを一言で表現することなど、なかなかできない。震災もあったし、ボクの場合は結婚もしたし、いろいろな記憶と感情が混ざり合ってしまって、ううっ、と考えてしまう。
しかし、ちょっと専門的な観点からすると、過ぎ去った去年という一年は、とても特徴ある年だったように思う。それは、エネルギーはあるんだけど、それが組織化されなかった年、とでもいうのだろうか。
たとえば、エジプトなど、中東の民主化。世界史的にみると、これは間違いなく、去年起こった事件の中で、圧倒的に最も重大な事件だった。そして、そこには、莫大なエネルギーが垣間みられた。次から次への国境を超え、そのエネルギーが旧体制を追い込んでいった。リビアのカダフィも殺されたし、シリアのアサドが追われるのも、もう時間の問題だろうと思う。しかし、エネルギーはあるんだけど、それが結晶化していかない。いったいどういう新しい体制ができるのか、どういうリーダーがでてきてどのように仕切るのか。組織化の行方が不透明であり、いまでもそうした状態が続いている。
あるいは、ニューヨークのウォールストリート占拠を皮切りに、世界にまで拡大した反体制、反市場主義の運動。結局、警察などによって占拠は排除されたが、最後まで、だれがリーダーとなり、何を目指しているのかが、わからなかった。ただ、エネルギーだけが充満し、組織化されずに終わった。これは、いま、アメリカの共和党の中にある、ティーパーティ運動についても言える。反体制、反ワシントン、反オバマで、ものすごいエネルギーがたまっているのに、それをまとめる組織としては、何もない。
そして、日本における、震災からの復旧や復興にむけた取り組み。多くの善意があり（もちろん多くの悪意もあるが）、たくさんのボランティアが動き、莫大な予算が投入され、文字通り、国家をあげたエネルギーが、そこにつぎ込まれている。しかし、ここにも、命令系統や意思疎通がはっきりしないという問題、いってみれば組織化の未熟さの問題がある。
われわれは、携帯電話やsocial networkなどによって、人々を動員することが前よりも安価にできることになった。その反面、組織をつくるという能力を失ってしまったのかもしれない。これは、結構卑近な問題である。どのようにして、ゼミをまとめるか。そしてゼミOB会を、みんなが楽しく意義あるものと思ってもらえるようにしていくか。
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         <category>ごあいさつ</category>
         <pubDate>Thu, 05 Jan 2012 08:58:41 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>2011年 ゼミOB会</title>
         <description>ちょっと前になるが、12月恒例のOB会があった。
場所は、リーガロイヤルホテルのサファイアの間。数日前に担当の戸倉君から、ドレスコードは「セミフォーマル」という指示が入って、現役生たちがちょっと緊張していた。
今年は、卒業以来一度も会ってなかった畑中君、ようやっと資格試験に通ったといううれしい報告をしてくれた奥村君、新しい道を歩み始めた黒木さん、などなど、久しぶりに来る人たちもいた。みんな、変わってなかった。そう、人間なんて、そう簡単に変わるわけない、のである。
卒業生たちは、やあやあと肩を叩いたり、よおよおと胸をついたりしながら、お互いの人生の健闘を讃え合っていた。現役生たちは、そんな彼らを、最初は遠巻きにしていた。気を使い、先輩たちだけで楽しむ時間を与えていたのだ。でも、しばらくたつとだんだんと輪の中に加わって、本当に楽しそうにしていた。先輩たちも、若い後輩たちに声をかけられ、うれしそうだった。今年も、先輩と後輩とがつながって、よかった。
大学の中で、ボクが学生に対してできることは、いろいろある。勉強を教えることもできるし、大人の作法とかを少しは教えることもできるし、たまには恋愛相談にのってあげることもできる。
しかし、卒業生たちに対してできることは、あまりない。彼らはもう立派な社会人だし、意見やアドバイスをうけるべき大人もほかにたくさんいるだろうし。だから、ボクにできることは、こうしたOB会や、あるいは同期の同窓会のような場で、ボクや大学時代のことをダシにしながら、それぞれの人生にアクセントをつけていってもらうことぐらいなのである。
今年、On the Roofは３曲ご披露した。１曲目は「あの素晴らしい愛をもう一度」。これは、ふつうは失恋の歌だと思われているけど、そうではなく、若いときの純真さを取り戻したいという、大人の心の叫びなのではないかと思う。だから、OB会で演奏するのにちょうどいいかな、と。布施君とボクのアコースティック２本と小樽君のベース。２曲目は、アカネのピアノが加わり、ハナちゃんが「恋人はサンタクロース」を歌ってくれた。今年も、サンタ帽子をかぶっての演奏。そして、３曲目は、ボクがどうしてもこれを歌いたいといって練習したコブクロの「エール」を演奏した。ハナちゃんがきれいなハーモニーをつけてくれ、アカネが小気味よいピアノの間奏をつけてくれた。おかげで、実に気持ちよく歌えました。
終わってから、「先生、最近は奥さんの影響で、Jポップを聴くようになったんですか」と、誰かから聞かれた。別にそんなわけでもないけど、でもいつかは、斎藤和義を歌いたいと思っている。
みなさん、よいクリスマス、そしてよい年をお迎えください。
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         <link>http://kohno-seminar.net/blog/2011/12/2011_ob.html</link>
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         <category>ごあいさつ</category>
         <pubDate>Fri, 23 Dec 2011 22:33:55 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>ベルリン再訪</title>
         <description>わが「現代日本社会システム研究所」（←なんと、ボクはこの研究所の所長なのである）とベルリン自由大学の研究者グループとが共催した国際ワークショップに参加するため、ベルリンを訪れた。
ベルリンに来るのは、２回目。
前に来たのは、1983年、まだ「壁」があった時代である。
チューリッヒの空港でEUへの入管審査を受けたとき、「ベルリンには前にも行ったことがあるのか」と聞かれたので、「83年、まだ壁があったときにね」と答えた。すると、その若い係官はとても意外そうな顔をしていた。「そういや、そんな時代があったんだっけかな」とでもいうような表情にも見えたし、「あんた、ずいぶん歳くってんだね」とでもいいたげな表情にも見えた・・・。ま、おんなじことなわけだ、どっちも。
西側に古くからあるサヴォイホテルに着く。明日の朝食をどうしようかと、チェックインしてくれた女性に「ベルリンにも、スターバックスなんて、あるんでしょうかね」ときいたら、２ブロック先にあるという。
もちろんである。スターバックスがベルリンにないわけがないのである。時代は変わったのである。
ただ、翌朝、結局ボクは、ホテルでビュッへ形式の朝食を取ることにした。そしたら、ソーセージとスモークサーモンが、ことのほかおいしかった。
午後、少し時間ができたので、タクシーをつかまえて、ブランデンブルグ門を超え東側のミッテ地区まで行ってくれと頼む。かつてチェックポイントがあったあたりを過ぎ、「壁」の後をなぞる煉瓦敷の線を横切った。
昔は、一日限りのビザをもらって、東側に入った。ビザは市内しか有効じゃなかったのに、ボクはポツダムまで電車に乗って行ってしまった。ポツダム会談が行われた建物を見学していたら、そこで英語を話す綺麗な女性に出会い、彼女がボクを案内してくれた。その方とは、日本に帰ってからも、しばらく文通が続いた。そう、文通。その頃は、メールもフェースブックもなかった。
・・・などと、想い出に浸りながら、東からブランデンブルグ門をめがけて歩く。門のすぐ手前に、ピカピカのスターバックスがあった。それは、EU議会だかEU委員会だかのオフィスのある建物の一階だった。
もちろん、昔はEUなどというものもなかった。そんなものが実現するなどと、誰も思っていなかった（多分）。やっぱり、時代は変わった。
門を超えて、帰りのタクシーをつかまえる。運転手に「どうしても、ブランデンブルグを歩いてくぐりたかったんだよ」と話かけたら、その人はなんとイギリス人だった。へぇー、ベルリンでタクシーを運転するイギリス人って、ほかにもいるのかと聞くと、３人ぐらい知っている、という。彼は、壁が崩壊したときすでに、この町に住み着いていたのだそうだ。「次の日は、大変だったよ、東ベルリンから自動車がたくさん入ってきちゃってね。」
時代は変わったのである。多分、そう、多分、よい方向に、変わったのである。
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         <link>http://kohno-seminar.net/blog/2011/12/post_204.html</link>
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         <category>旅行</category>
         <pubDate>Sun, 18 Dec 2011 12:59:42 +0900</pubDate>
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         <title>（続）談志師匠のマクラのように語る</title>
         <description>ええー、まったく、最近は能書きが多い店ばっかりですね、ホント。いちいち、説明にきやがるんだ、これはドコトカでとれたナントカです、とか、このお肉はあちらのソースと合わせて召し上がって下さい、とか。あのさぁ、レストランってのは、緊張するために行くところじゃないんだ。うまけりゃ、それでいいってもんじゃないんだ。ゆったりと、雰囲気を楽しむって場合もあるってこと、分かんないのかね。
ま、本当に一流のシェフ、特にオーナーシェフは分かってる、うん、分かっている、と思いますけどねぇ。でも、これが個々のサーバーのレベルまでおりてくると、転倒しちゃうんだな。そう、自分の店でもないくせに、態度が「これから説明してあげるから」とか、「ほら、うまいでしょ、ウチ」みたいな、自分たちが自己満足に浸るためにあるかのような構図になっちゃう。
いや、この前もね、ウチのかみさんの誕生日だったんで、あるレストランに予約して、行ったんですよ。ところが、メニューみても、なにひとつわかんないわけ。これは、うん、笑っちゃったね。
ちなみにその日のメニューは、＜山形牛サーロインのスピエディーノ＞＜フォアグラのパスティッチョと無花果のコンポスタ＞＜鮮魚のヴァポーレ＞＜ストロッツァプレッティ　ボルチーニとアンチョビ＞＜バッカラとサフランのマンテカート　雛豆のプレア＞＜鮪とパプリカのクッキアイオ＞＜トルテッリ　山鶉のリピエーロ　クレマ　ディ　トピナンプール＞＜鹿のロースト　サルサ　リクリツィア＞＜栗のムース　コーヒーのグラニテ＞。
どうみても、このメニュー、普通の客を「田舎もん」扱いするためのものとしか思えない、でしょ。この中に説明きかないで分かるもの、ひとつでもある？えっ？ボルチ―ニとアンチョビは分かりますって？ばか、オレだってそのぐらいは、分かるってばさ。
あのぉ、たとえば、スピエディーノってのは、ですね、イタリア語で、串刺しって意味なんだそうです。じゃ、＜山形牛サーロインの串刺し＞って書きゃいいじゃんかって、オレなんか思う。そう書いてあるほうが、よっぽど、気取ってなくて、お洒落なんじゃ、ないんですかねえ。
いやね、実はお洒落っていうのは、だね、ちょっとでも「気取る」とか「気負う」とか、そういうところがみえたら、おしまいなんですよ。だから、逆にいうとね、お洒落な客は、きっと、このスピエディーノって言葉が分からなかったら、サーバーにきいちゃうと思うよ。これって、どういう意味なんですかって。で、その時に、そのサーバーの方が、気負うことなく「いやあ、串刺しのことなんですよ」って、さらりといってのけられるか。これが、一流のレストランかどうかを分けるポイントになるんじゃないか、とオレは思うね。

談志師匠のご冥福をお祈りいたします。
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         <link>http://kohno-seminar.net/blog/2011/11/post_203.html</link>
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         <category>グルメ</category>
         <pubDate>Wed, 23 Nov 2011 23:45:12 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>Chuck LorreとChristopher Lloyd</title>
         <description>ボクが、チャック・ロアーという人がいる、と知ったのは、Big Bang Theoryというコメディを見ていたときであった。ボクは、このCBS系列のシリーズが、いま大のお気に入りである。Seinfeldなきあと、そしてFriendsなきあと、いま最先端のコメディだと思う。この間北米に出張した際、二つもDVDを買ってしまった。主人公の一人シェルデンのセリフは、どれも抱腹絶倒するものばかりだが、その一方で、いやーよく考えられているなあ、と感心してしまう。インテリジェンスがみなぎったコメディである。そう、リック・ペリーとか、ミシェル・バックマンとかには、絶対に通じないユーモアになっていると思う（でも、ニュート・ギングリッヂには通じるかも）。
で、このシリーズのプロデューサーがチャック・ロアーなのである。どこかで見る名前だな、と思ったら、チャーリー・シーンが物議をかもして降ろされたコメディTwo and a Half Manのプロデューサーでもあった。こちらのシリーズは、ジョン・ステイモスが新たに主人公に決まって、新しいシーズンがスタートした、ときいていた。で、これも、先日北米に出張した際、この新シーズンの第一話を見る機会に恵まれた。大ヒットだった前作の二番煎じになって質が低下するのではないか、と思いきや、とんでもない。すくなくとも、この第一話を見る限りは、期待できる内容となっていた。というわけで、あらためて、ロアーの才能をひしひしと思い知らされたのであった。
Christopher Lloydの方は、もともとFraiserのプロデューサーとして名前を知っていた。ボクは、しばらくの間、この方は映画バック・トゥー・ザ・フューチャーの「ドック」役の俳優さんと同一人物とばかり思い込んでいた。ところが、実は同姓同名なだけで、違うひとなのだ、ということを最近になって知った。
さて、この方の最近のヒット作はModern Familyである。これも、いやはや、実に面白いコメディである。歳の離れたメキシコ人の女性（連れ子あり）と結婚した中年男性。その男性の息子とやり手の奥さんの間に３人のこまっしゃくれた子供がいる。そして、その奥さんの男兄弟がゲイで、パートナーと一緒にベトナム出身の娘を引き取って育てている。この三つの家庭が舞台となって、話が展開する。現代アメリカの家族形態の諸相を鋭く捉えており、こちらもインテリジェンスに満ちている（モルモン教徒のミット・ロムニーやジョン・ハンツマンには、通じないだろうけど）。
いやー、やっぱりアメリカのコメディは、裾野が広いし、才能を感じさせるものが多い。そして、俳優さんたちが、みんなうまい。もしボクがアメリカで生まれていたら、きっとそういう道をめざしていたと思う。
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         <link>http://kohno-seminar.net/blog/2011/11/chuck_lorrechristopher_lloyd.html</link>
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         <category>my favorites</category>
         <pubDate>Thu, 10 Nov 2011 00:08:14 +0900</pubDate>
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         <title>（続）なぜ経済学者の論争は不毛か：消費税アップの是非について</title>
         <description>消費税を上げることが景気に及ぼす影響について、一部の経済学者は、それほど大きくない、と言い張っている。他方で、いやいや、このような不景気の時に消費税を上げるのは、経済学を知らない人たちのすることだ、という意見も根強くある。
いったいどちらの立場が正しいのか。
ボクは、最近、経済学という学問がつくづくわからないのであるが、すくなくとも社会科学の根本的な作法に従うとすると、こういう問題は反証可能なデータでもって決着をつける、というのが筋ではないかと思う。ここで重要なのは「反証可能」であるということであり、それは、自分の主張を支持するデータ分析をきちんと公開し、そこに誤りがあったと判明した時には、素直にというか謙虚にというか、「ごめんなさい、ワタシ間違ってました」という可能性を自ら開いておく学術的態度を意味している。そのような素直さないし謙虚さがそなわってないなら、学問は「科学」としての地位を失う。
ところが、消費税アップの効果について最近議論している日本の経済学者たちが、自分たちの主張の根拠となっているデータを示すことは稀である。疑い深いボクなどは、この人たちは根拠となるデータをもっているのか、とさえ勘ぐりたくなる。彼らは、自分たちの主張の「理論的」正しさばかりを、声高に、あるいはさりげなく、訴える。しかし、「理論」は「データ」によって反証されるべきものではないのか。そもそもそのような反証可能性を担保することこそが、経済学を科学たらしめるのではないのか。データの裏付けもないところで、どうやって経済学は、カルト宗教などの「疑似科学」と一線を画すことができるのか。
実は、消費税を上げることがどのような効果をもたらすかを、データでもって裏付けることは、かなりむずかしい。たとえば、増税が一般の人々の消費の動向に与える影響を調べるのだとすると、必要となるデータは、一般消費者の心理や行動に関するものでなければならない。そのようなデータは、単に集計的な経済統計を眺めているだけでは、手に入らない。大掛かりな調査データ、すなわち（国全体の消費者を代表すると思われる）数千人のサンプルに対してことこまかにサーヴェイをして、得るしかない。
しかも、こうしたサーヴェイの仕方それ自体には、むずかしい工夫が要求される。サーヴェイをした経験のある者ならだれでも知っているが、質問に対する回答は、その質問がどのようなワーディングでなされているかに、大きく依存する。ただ単に「もし明日消費税の税率があがったら、あなたは今日よりも消費を手控えると思いますか」と聞いたら、おそらく圧倒的多くの人は「イエス」と答える。しかし「今後日本では消費税が段階的にあがっていくことが予想されていますが、もしそうなったら、あなたは現在よりも消費を手控えると思いますか」と聞いたら、「イエス」と答える人の割合はかなり減るのではないかと思う。いったいどういう聞き方をするのが、もっとも正しいのか、これはそう簡単には決められない。
いずれにせよ、人々の心理や行動に関する洞察や、サーヴェイという手法そのものについての知識がなければ、消費税率をアップすることがどのような効果をもたらすかを、データによって裏付けることはできない。そして、ボクには、こうした洞察や知識は、オーソドックスな経済学の守備範囲を大きく逸脱しているとしか、思えないのである。
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         <link>http://kohno-seminar.net/blog/2011/10/post_202.html</link>
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         <category>コンセプト</category>
         <pubDate>Thu, 20 Oct 2011 19:52:13 +0900</pubDate>
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         <title>兎と亀の政治学的会話：前原の出馬は何を物語るか</title>
         <description>兎：いよいよ前原が代表選に立候補したね。
亀：そうみたいだね。
兎：もったいぶらせやがって。どうせ最初っから、出たかったくせにさ。
亀：そりゃそうだよ。政治家の行動を突き動かしているインセンティヴは、一に再選、二に昇進だからね。誰だって首相に昇りつめたいとおもっているわけさ。
兎：野田が可哀想だ。
亀：あはは、そんなことはない。野田の場合は、前原が出馬宣言してしまってからでは、名乗りをあげられない。だから、自分が先手を打つしかなかった。それで前原が諦めてくれることを願うしか、勝ち目がなかったんだな。うまくいかなかったが、まあ彼にとっては早い段階で動くことが、合理的だった。
兎：前原には、野田が立候補したことで。焦りはなかったのかね。
亀：全然なかったと思うよ。だって、考えてもごらんよ。前原にとっては「待つ」戦略が最適だった。「前原は出ないのか」という待望論がザワザワと背景にある限りは、野田を含め「どの候補もいまいちだなあ」という気分が広がる。そういう気分にさせればさせるほど、前原が最後に出てきて「いいとこどり」する効果が倍増するわけだ。それに前原には、短期決戦を好む理由がある。献金問題やらなにやらで、いろいろな質問攻めにあうのはたまらない。だから、だーっと、最初の勢いのあるうちに、代表選を迎えたいんだよ。
兎：そうかあ。「白紙」とか「熟考中」とか、いろいろいってたけど、ただただ時間のたつのを待ってたんだね。
亀：ストーンズでも口ずさんでたんじゃないか、「Time is on my side, yes it is」ってね（笑）。
兎：でもさ、仮に前原が今回代表になったとしても、首相を長くは続けられないよね。あと２年のうちには、総選挙がある。このままじゃ間違いなく、民主党は負けるよね。
亀：そう。だから、前原が出馬するっていうことは、結構意味深いことだと思うよ。
兎：どういう意味だい？
亀：前原にしてみれば、本当は短命に終わる政権なんて、望むところではないはずだよね。まだ若いし結構自信家だから、自分だってやろうと思えば小泉さんぐらい長くできると思っている。とすれば、だね、ここは一回パスして、次の機会をうかがう、っていう戦略だって、彼の頭をかすめたと思う。
兎：一種の長期戦略だね。
亀：そう。でもね、彼は長期戦略をとらず、今回短期戦略をとろうと決心したわけだ。
兎：それは何を意味するんだい？
亀：それは、だね、前原自身が、次の選挙で民主党が勝つことはありえない、という判断をした、ということを意味するんだよ。おそらくは、大負けをするだろうと。そして、立ち直るまでに相当時間がかかるだろうと。いや、立ち直れるかどうかも、わからないと。彼は自分の党の将来に見切りをつけたというわけさ。
兎：そうか。冷静というか、結構、冷酷だね
亀：いやいや、合理的なだけさ。しかしね、わかんないのはさ、前原を担いでいるあの若い連中たちだよ。あの人たち、リーダーが立候補を決めたということが実は党の将来に見切りをつけたことを意味するということをわかって、彼を担ごうとしているとは、どうみても思えないんだな。
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         <category>コンセプト</category>
         <pubDate>Tue, 23 Aug 2011 22:53:40 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>なぜ経済学者の論争は不毛か</title>
         <description>昨日NHK「日曜討論」を見ていたら、早稲田の同僚の若田部さんと、まえに一緒に仕事をしたことのある慶応の土居さんがそろって出演し、震災後の復興とこれからの日本経済の立て直しについて、野田財務大臣を囲んで話をしていた。政治家たちによる討論の時とちがい、学者がゲストとして出演しているときの「日曜討論」はどこか淡々と進むことが多いのであるが、昨日はそういう退屈さを察してか、司会の解説委員の方が一所懸命、若田部さんと土居さんとの対立点を強調しようとしていた。ま、早稲田対慶応という構図もわかりやすいし、それも一興だな、と思ってみていたのだが、そのうちこの二人の経済学者による論争はやっぱりなにかずれている、というか、なにか大事な点を見逃している、という感想を強くもった。
ごくごく単純にいうと、土居さんは消費税を上げる必要性を主張し、若田部さんはいまは消費税をあげる時ではないという主張をしていた。しかし、土居さんも若田部さんも、どちらも日本経済がデフレを脱却することがもっとも肝心であるという点では意見が一致していた。では、デフレ脱却という目標で一致しているにもかかわらず、なぜ二人の意見は対立するのか。土居さんはいつどのくらい消費税率をアップするかを明確にすることこそが、人々のインフレ期待を高めるので、デフレ脱却に効果的であると考える。一方の若田部さんは、いま震災から復興しようとしているさなかに増税を予告することは、消費マインドを下げ経済を停滞させるだけである、という考えである。
一見したところ、この意見の相違は、経済学における理論上の対立に基づいているようにもみえるが、実はまったくそうではない。土居さんは、急務の課題である震災からの復興と、今後の日本経済の成長とを切り離して論じることはできないとする立場にたって、デフレ脱却を模索する。一方の若田部さんは、震災からの復興はそれとしてとらえ、日本の抱えるより大きな財政や社会保障の立て直しの問題とは切り離して考えるべきだと反論する。とすると、二人の間の対立は、経済学の内部では解消されえない考え方の違いに根ざしていることになる。なぜなら、二人の間の対立点は、「短期」の問題と「長期」の問題とを切り離して考えるべきかどうか、ということについての意見の違いに由来しているからである。
もし切り離して考えるべきだ、というのであれば、若田部理論が正しい。切り離せないのなら、土居理論が正しい。つまり、それぞれの理論は、それぞれの前提にもとづけば、どちらも正しい。しかし、そもそも「短期」と「長期」とを切り離して考えるべきか否かという、その前提そのものについては、二人の経済学理論はどちらも、知的に有益な示唆や情報を何も提供してくれていないのである。
「短期」とは何か。それはすぐれて哲学の問題であるとでもいわなければならない。あるいは、人間や国家社会にとって「短期」と「長期」とは連続しているのか、断続しているのか。そのような問いかけは、心理学者にゆだねられるべき問題、あるいは歴史学者が（結論のあてなく）延々と議論する問題であろう。そして、目下の日本が抱える課題として、「短期」に集中するのか、「長期」まで考えた経済の構築をはかるのか。それは、まったくもって政治の選択の問題であって、すくなくとも経済学の理論から解答がえられるような問題ではないのである。
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         <category>コンセプト</category>
         <pubDate>Mon, 15 Aug 2011 09:24:12 +0900</pubDate>
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         <title>天災と神の天罰について</title>
         <description>院生の金君からすすめられてJudith ShklarのThe Faces of Injusticeを読んだ。この本は現代哲学では古典の部類に入るらしいが、残念ながら訳本はない。しかし、大震災に見舞われたこの日本で、できるだけ多くの人に読んでもらいたい、素晴らしい本である。
この本は、When is a disaster a misfortune and when is it an injustice?という問いかけから始まる。災害は、どういう時に「不運」で、どういう場合に「不正義」となるのか。われわれは、全くの天災だったらそれを「不運」と位置づける。一方、「どこかで正義でないこと、正しくないことが行われて、それが起こった」と感じれば、われわれはその不正義を追及したいと思う。しかし、シクラー先生は、この二つを分けることは容易ではない、という。実は、この本は、最初から最後まで、不運としての天災と不正義としての天災との境界がいかに微妙で曖昧か、というメッセージを、繰り返しいろいろな角度からさまざまな実例を通して、われわれに伝えようとするものである。
たとえば、今回日本でおこったことについて、地震と津波は「天災」だが、原発事故は「人災」だった、というような線引きが行われることがある。原発事故が単なる不運として片付けられないことは明白だが、では地震や津波で多くの人々が亡くなったことにまったく「不正義」はなかったといえるのか。どこかで誰かが、防波堤の高さと強度を過信させ、人々の警戒を怠たらせるという不正義を働かなかったか。どこかで誰かが、高いところへ避難するための逃げ道を整備するのを怠るという不正義を働かなかったか。考えだせば、可能性としてはきりがない。
さて、この本の第二章は、The modern age has many birthdaysという興味深い一文から始まる。そして、近代という時代の始まりとしては、いろいろな契機が考えられるが、その一つとしてリスボン大地震がある、という。1755年に起こったこの地震では、１万人以上が死んだといわれている。では、なぜこの地震が起こった日を近代の幕が開けた日と考えられるのか。シクラー先生は、以下のように説明する。この地震までは、天災が起こるとヨーロッパでは、それが神さまの仕業であるという議論がまかり通っていた。天災に見舞われた人々が「なぜ私たちだけが不運に見舞われなければならないのか」と問い、それに対して教会や宗教家たちは「神の意志である」というような解釈をしてきた。しかし、リスボン大地震の後では、被害の規模があまりに大きかったため、そのような解釈はもはやすんなりと受け入れられなかった。ヴォルテールは、神にしてはあまりに残酷な仕打ちではないかと教会や宗教者たちを挑発し、ルソーは大規模な被害が出たのは、神の仕業ではなく富めるものあるいは権力を握っているものたちが原因ではなかったかと糾弾した。そして、カントは、当時の科学的知識を総動員して地震の原因を探ろうとし、神の行為を詮索するのは止めようと諭した。ただ、いずれにしても、リスボン大地震は、神と人間の関係についての議論の仕方を大きく変えてしまった。すなわち、この地震を最後にして、知識人たちが公的の場での論争において、「なぜ神は罪もない多くの人々を殺すのか」という問いを議論することはなくなった。こうして、啓蒙近代が訪れた、というわけである。
実は、昨日、東日本大震災は日本人に下った「天罰」であると発言し、一度それを撤回しながらも新しい著書でその言葉を再度用いた政治家の方と、テレビ番組でご一緒させて頂いた。残念ながら、きっかけをうまくつかめず、上記のシクラー先生の本については、番組中も番組が終わってからも、その方に伝えることができなかった。
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         <category>コンセプト</category>
         <pubDate>Thu, 04 Aug 2011 10:52:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>盛りだくさんの７月</title>
         <description>震災の影響で今年は授業開始が遅れたため、最近になってゼミ関連の活動が目白押し、という感じでした。
まずは、久米先生のところと合同ゼミ。
日経の「経済教室」に掲載されていた二人の政治学者の論考をディスカッションの題材に使って、おおいに盛り上がった。そのあとの懇親会も、初対面にもかかわらず、みな打ち解けていた。これからキャンパスで会っても知らんぷりせず、お互い友達の輪を広げてもらいたいものだ。もちろん、久米ゼミのみなさん、ボクにも声をかけて下さいね。
次は、合宿。場所は河野ゼミ恒例の菅平。
サッカーでは、女子の多い４年生チームが３年生チームに圧倒された。ボクも４年生チームに入ってがんばったが、いかんせん、最近は体力が衰えてたいした力になれなかった。そういえば、ボクが投手だったソフトボールでも打ち込まれて、負けてしまった。しかし、午後のバレーでは、（３年生の中に無謀かつ滑稽な片手オーバーハンドレシーブを試みる人がいて）一矢を報いることができた。
朝のジョギング、３年生の女子たちとのUNO、火を起こすのに１時間もかかったバーベキュー、シングルスで１ゲーム勝たしてもらったテニス、などなど、楽しい想い出がたくさんできました。
そして、夏のOB会も挙行された。
今年も遠くから駆けつけてくれた人、忙しいのに深夜を過ぎて２次会あるいは３次会から参加してくれる人がいた。本当にありがとうね。新メンバーとなったわれらがOn the Roofも、あまり練習時間がなかったのに、ちゃんと３曲演奏できて、よかった。そのうちの1曲は、ボクと妻に捧げられていて（それからみなさんからお祝いもいただいて）感激しました。
納会は、北京大学からの留学生であるパクさんの送別会をかねて行った。試験が近いのに、また最近は出費がかさんでいるだろうに、みんなよく集まってくれました。
早稲田に赴任したとき、（前任校での反省もあって）とにかく１０年はがんばろう、がんばって学生たちに愛され尊敬されるようになろう、と心に決めてやってきたが、ここまで本当に素晴らしい学生たちに囲まれるとは思わなかった。来年は、とうとう10期生が入ってくることになる。いつまで体力や知力が続くかわからないけど、もうあと５年、いやできるだけ長く、これからもボクも頑張るので、みなさんよろしくお願いします。
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         <category>ごあいさつ</category>
         <pubDate>Wed, 27 Jul 2011 00:25:19 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>日本の政治学者は誰と似ているか</title>
         <description>他人のそら似という言葉がある。うーん、似ているということは、本当はまったく無関係ではなく、たどっていくと祖先が一緒でDNAを共有している、というようなこともあるんじゃないか、と思わないわけではない。一方、前にも書いたが、ちがう人たちとの間に共通点を見つけようとする習性というのは、情報量を節約しようという、人間の本能に基づいているのではないかという気もする。
さて、以下は、ずーっと前から気になっていた、ボクの同業者たちの中で「あの先生、○○さんに似ているよなあ」という組み合わせです。もちろん、まったくの独断と偏見に基づいてるので、真剣に文句いってきたりしないで下さいね。

まずは、よくテレビでお見かけする東大教授の御厨貴先生。正確には御厨先生は政治学者ではなく歴史家というべきでしょうけど、彼、前にクイズダービーでおみかけした篠沢教授とそっくりだと思いませんか。あの眼鏡とか、下をむいてぶつぶついってそうなところとか。えっ？学者が学者に似ているなんてのは、別に面白くない？
（じゃ、関西学院大学の山田真裕先生が、最近、佐々木毅元東大総長に似てきたねえ、というネタは飛ばすことにします。）
では次は、芸能人に似ている方ということで、東大の藤原帰一先生。そういえば、藤原先生も、最近よくテレビでお見かけしますね。で、藤原先生って、あのSMAPの香取慎吾さんに、似てないでしょうかね。ね、ね、似てるよね。しゃべり方とかも。
次も、芸能人に似ている方で、京都大学の鈴木基史先生。非常に優秀な研究者ですが、この鈴木先生、ボクには、どこかでほんわかとした桑田圭祐さんを思い出させてくれます。桑田さんは、見事復帰されて、本当によかったです。実は、鈴木先生は、もうひとり、ボクらの世代のあこがれのサッカープレイヤーにも似ている、とつねづね思っております。それは、いまの横浜Fマリノスの木村和司監督。日産現役時代のフリーキック、たまらなかったですね。最近はちょっとお太りになりましたが、それでも相変わらずかっこいいです。
さて、サッカー選手に似ているというと、関西学院大学の北山俊哉先生も。最近お会いしていないですが、ボクの中での北山先生のイメージは、髪がチリヂリで長くて、っていう感じなので、あの北沢豪さんみたいだなといつも思っていました。ただ、ボク、あんまりヴェルディは好きではなかった、正直。
次は、ちょっと異色ですが、新潟県立大学の学長になられた猪口孝先生。ボクの大学時代の恩師のだんなさんですが、ごめんなさい、ボクは猪口先生というと、赤塚不二夫が生み出した名キャラのひとつケムンパス（「もーれつア太郎」に出てくる）を思い出してしまいます。やっぱりあのメガネの感じでしょうかね（気に障ったらごめんなさい）。
さて、最後は若いご夫婦のお話。ご主人は、大村啓喬先生。最近滋賀大学に就職されたのですが、彼はなんと、むかし、ボクの授業を青学でとっていたのでありました。で、彼が誰に似ているかというと、特定の人ではないんですね。出てくるイメージは、大学のラグビー選手。あるいは、女子プロレスラーをめざしていっしょうけんめい修行中の人（ごめん）。背が高く、がっしりしているので、どうしてもそんな感じです。さて、この大村さんには、とてもすてきな奥様がいらっしゃるのですが、この方も研究者でして、ボクも何度かお目にかかったことがある。この方は、ボク的には、アン・ハサウェイに似ている。ちょっと誉め過ぎかもしれないけど、うん、ちょっと似ている。

ということで、今回は、どうでもいいような、ほとんど身内受けしかしないようなエントリーでした。
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         <category>コンセプト</category>
         <pubDate>Thu, 14 Jul 2011 22:52:07 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>山口那津男代表との小さな論争、そして民主主義に対する責任について</title>
         <description>先日、あるテレビ番組で山口那津男公明党代表とご一緒させて頂いた。山口さんにお会いするのは、これが二回目である。ボクは、それほどたくさんの政治家を知っているわけではないが、山口さんは本当に立派な政治家であると思う。人と相対するとき、相手の目をしっかりと見すえて、真剣に話しをする。待合室でも、スタッフひとりひとりに対し敬意と礼節をもって接する。伝統ある公党のトップであるのに、偉ぶったところが全然ない。若い頃からちやほやされたためか、自分が世界の中心だと思い込んでいるのか、周りにまったく気配りのない、どこかの政党の誰かさん（←さて、誰でしょう？）とはちがう。
しかも、山口さんは、いつでもどこでも、自分の信じるところに基づいて、きわめて理路整然と主張を展開する。論争相手としては、きわめて手ごわい。国会の党首討論で菅首相をやり込めているところをテレビ中継で見た方も、たくさんいるのではないか。今回ご一緒させていただいた番組でも、ひとつひとつの発言は短いのだがメリハリがあり、きちんとしたメッセージがこもっていた。もちろん政治家であるから、政治的な発言をすることもあった。しかし、そうした発言でさえ、山口さんの場合は、筋が通っている、というか、スキがない、というか、それぞれ相応の根拠をもった発言となっていた。
今回の番組では、その山口さんに、ちょっと論争を挑んでしまった。百戦錬磨の相手に論争を挑むこと自体、無謀であったわけだが、案の定、ボクの方が分が悪かった。リアルタイムで見ていたボクの母などは、「アンタ（←ボクのこと）、ツッコもうとしていたけどカンでたでしょ。ちょっとみっともなかったわよ」と、厳しい評価であった。
では、その論争とは何だったのか。ボクは結構重要なことだと思うので、番組の中でうまく言い尽くせなかったことも含めて、以下に書いてみる。
山口さんは、菅首相の退陣が決まった以上、第二次補正予算は、新しい政権のもとで組まれるべきだと発言した。（ボクもそう思う。）しかし、山口さんは同時に、（菅首相が辞めるとか辞めないとかに関係なく）公債特例法案については、民主党が予算の中身を大幅な見直しをしない限り（参院で）賛成することはできない、と発言した。ボクは、それはおかしいといい、（公明党を含めて）今の野党は、今年度の予算の裏づけとなる特例法については成立させる責任があると思う、と発言した。そのとき、うまくいえなかったが、ボクがいいたかったことは、こういうことである。
民主主義とは、最後は多数決で意思決定をする制度である。多数決で負けた側が、決定がなされた後もずっと反対し続けたのでは、民主主義は成立しえない。どのような議論があったにせよ、いったん左側通行と決めたからには、いくら右側通行をしたいからといっても左側通行に従わなければならない。自分は100キロ出したいけれども、60キロ走行というルールをみんなで決めた以上は、それでも100キロ出して走ったらやっぱりその人はルール違反をしているとみなされるのである。さて、いま、不信任案が否決され、菅内閣は信任された。憲法によって野党に提出が許されている不信任案というのは、議院内閣制のもとでもっとも重要な議案であり、それには大きな責任がともなう。公明党には、不信任案を「提出した」責任もたしかにあるが、それとともに（多数決に破れた以上）国会での議決を「受け入れる」という責任もある。それは、民主主義に対する責任である。自分たちが起こしたアクション（不信任案提出という動議）の結果として菅内閣が「信任」されてしまったのであるから、その内閣がすでに成立させている予算執行を認めない、ということは論理的におかしい。
しかし、ここまでいったからには、返す刀で、民主党に対して厳しいことを言わなければならない。現職の首相が「辞める」という意思表示をすることで、野党の不信任案を否決しようなどという姑息な手段があってよいはずがない。辞めていく首相を「信任」する、とは、どういうことであるのか。国会の議決、憲法に規定されている信任案・不信任案の重みを、何だと思っているのか。民主党は、責任を果たしていないどころではなく、議院内閣制を、そして民主主義を、冒涜したといっても過言でないのである。
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         <category>コンセプト</category>
         <pubDate>Sun, 12 Jun 2011 11:23:30 +0900</pubDate>
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         <title>兎と亀の政治学的会話：SNLで笑える政治家と笑えない政治家</title>
         <description>兎：今夜から君の大好きなサタデーナイトライブが日本でも始まるらしいね。
亀：そう聞いた。日本の芸人たちが、というか、日本のメディアが、どこまで政治や政治家を皮肉ることができるか、お手並み拝見というところだな。あまたある、つまらん「お笑い番組」のひとつにならないことを、いちおう、期待はしているけど、ま、ちょっと無理じゃないかね。
兎：SNLといえば、最近は本場のSNLでからかったらたまらなく面白だろうなという政治家の行動に、日本は事欠かないね。
亀：ちょっと前に、セス＝マイヤーがまっとうな報道番組（NBC Meet the Press）でインタヴューを受けていたのをみたが——ということは、つまり、SNLの取り上げ方自体がいまアメリカではニュースになっているということだが——、その時彼は、とにかく政治家のつっこみどころ満載の言動こそが、自分たちのメシのタネだから、政治家にはずっとこのままでいてくれ、洗練されないでくれ、と「お願い」していたよ（笑）。
兎：その点からすると、いま一番ネタになるのは、だれだい？
亀：そりゃ、あの前の総務大臣の、ホリぐち、じゃなかった、ホラぐち、いやいや、ハラぐち、だろう。「不信任案を野党が出したといえども賛成します」が、一夜明けると、「野党の不信任案に乗るなんて邪道」になっちゃうんだから（笑）。
兎：たしかに、あの「いけしゃーしゃーぶり」を、怒るんじゃなくて、徹底的にからかうような、テレビ文化の熟成を、日本でもみてみたいもんだ。
亀：しかしだね、からかえないような、したたかな政治家もいるな。
兎：小沢さんかい？
亀：だってさ、このごたごたで政治的な得点を稼いでいるのは、あの人ぐらいじゃないか。
兎：自民党も公明党も、頼りにしていた不信任同調組の親玉である彼に、肩すかしを喰らっちゃった。鳩山は、相変わらず「わき甘」なところを見事に披露しちゃった。で、肝心の菅は、不信任は乗り越えたけど、不安定な党内を抱えたまま。
亀：一方、小沢だけは「自分のおかげで退陣発言を勝ち取った」という功績をあげたことになっている。しかも、それでも菅が実際に退陣しないのは、鳩山のわきの甘さがいけなかったんだ、ということで、ちゃんと非難も回避している。
兎：うまく「除籍」もま逃れているしね。
亀：小沢にしてみれば、政権党である民主党の中に自分を置き、しかもその民主党が混乱することが、一番望ましい状態なんだよ。で、今回は、野党からの不信任を退け、民主党がまがりなりにも政権の座を維持した、しかしそれでも党内は混乱したままである、という、小沢の描いた筋書き通りにことが進んでいる、という感じがする。
兎：なんで、自分の党が混乱している方がいいんだい？
亀：小沢という人は、まえに自民党を割って出たときもまったく同じ状況だったが、政治家になりたての、選挙に弱い人たちを多くまわりに従えて、数の力を誇示するんだよ。で、こうした若い人たちは、このままじゃ、民主党は次の選挙で負けると思っている。つまり、自分たちが「失職」しちゃうって、思っているんだな。で、小沢は、その弱みを最大限、自分の影響力の拡大に利用しているわけさ。菅じゃ勝てないでしょ、党を改革しなきゃだめでしょ、ってね。
兎：でも、小沢自身は、選挙で負けることはありえないよね。
亀：いや、だから、むしろ彼にしてみれば、民主党が負ける方が、もう一度自分にチャンスが回ってくる、ぐらいに考えているのさ。つまり、小沢についていっている若い政治家たちと、小沢自身の政治的利害というのは、本当は真っ向から対立しているんだよ。
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         <category>コンセプト</category>
         <pubDate>Sat, 04 Jun 2011 10:25:00 +0900</pubDate>
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