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      <title>早稲田のちょいわるオヤジ日記</title>
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      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>「ホントかよ」と思ってしまうような、本当にヒドイ話</title>
         <description>このブログでは、あんまり悪口を書かないようにしようと思っているのだが、今回はどうしても我慢ができないので、書くことにした。
先日、知人を介して、若いカナダ人を紹介された。このＡＤ氏、日本の文部科学省から奨学金をもらい、日本のある大学院で勉強したことがある、という。ところが、その奨学金の期間は2年だったのにもかかわらず、１年で帰ってきてしまったそうである。いろいろ話をきいてみたら、この奨学金の運用というか運営というか、信じられないくらいヒドイ。
まず、ＡＤ氏によると、この奨学金を受けるためには「奨学生に選ばれたことがわかってから2週間のうちに、どこかの大学から受け入れの通知をもらわなければならない」というルールがあるのだそうである。え、たったの2週間？何度聞き返しても、そうだという答えが返ってくる。
しかも、である、受け入れ通知をもらえなければ、奨学金は取り消される、という。日本の「まとも」な大学で「まとも」に入学審査をしている学部や研究科において、２週間で外国人に入学許可を出すところはまずない、と思う。しかも、ＡＤ氏によれば、奨学生に選ばれたという知らせをもらうまでは、けっして事前に日本の大学関係者に連絡をとってはいけない、と念をおされたのだそうだ。もしそんなことが本当にあったとすれば、学問の自由が侵害されているのではないかとさえ、思える。
いずれにせよ、この奨学金制度は、「来る者は拒まず」と門戸を開いている日本の一部の大学の一部の学部・研究科にしか、奨学生を行かせないようにしている制度だと思われても仕方がない。学問の自由はともかく、すくなくともこの制度の運用には、研究の内容に応じてベストなマッチングをみつけてあげようなどという学術的配慮は微塵もない。いや、より一般的にいって、日本を訪れようという外国人に対する、尊重の念というか、基本的な礼節も欠落しているように思える。
さらに驚いたのは、実際に日本に着いてからの奨学生たちの実態である。この奨学金を受け取るために、ＡＤ氏は月に一度、大学の事務所に顔を出す必要があったという。しかし、それをのぞいては、ＡＤ氏には何の義務もなかった。大学に行こうが行くまいが、授業をとろうがとるまいが、研究を進めようがサボろうが、誰も感知しないのだそうである。たしかに、審査をしていったん奨学金を出すと決めたからには、奨学生の側の自主性を尊重するという方針も、理解できないわけではない。しかし、韓国や中国など、日本の近隣から来ている奨学生の中には、母国にそのまま住み続け、月に一度だけ来日して、奨学金を受け取る手続きをすませ、「貯金」することだけに専念していた者が少なからずいた、という。すでに、この奨学金制度については、そういうことをしても誰も何もいわないという暗黙の評判が出来上がっているので、とんでもない慣行がずっと続いているらしい。
ＡＤ氏は、この奨学金制度の運用に嫌気がさし、2年の期間をまっとうせず、カナダに帰ってきてしまったのである。ボクは、この話を聴いて、怒るというよりも、とても悲しくなった。この経験を通して、さもなければ日本に関心のあった1人の才能ある外国の若者が結局日本を去る決断をし、現在では日本とまったく関連のないキャリアを歩むことになったわけである。ＡＤ氏の関心を引き止められなかったことは、大げさでなく、日本の国益にとって大きな損失だったのであって、こういうことを積み重ねているうちは、日本はいつまでたっても国際社会に確固たる地位を築けない。
最後にＡＤ氏はこう付け加えた。この奨学金のルールは毎年のように変更されるので、もしかしたら現在は、自分が経験した時と異なった運用がなされているかもしれない、と。ＡＤ氏は、日本人であるボクに、日本の制度の悪口をさんざんいったので、最後にさらりと礼節ある大人の発言をしたわけである。ボクとしては、ＡＤ氏の言を待つまでもなく、奨学金をめぐる状況が大幅に改善されつつあることを、強く願うばかりである。
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         <link>http://kohno-seminar.net/blog/2008/09/post_132.html</link>
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         <category>コンセプト</category>
         <pubDate>Tue, 02 Sep 2008 17:18:56 +0900</pubDate>
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         <title>Clever phrases</title>
         <description>北米に長い間過ごした経験のある人なら誰でも経験することだと思うが、こちらではときどき思いもよらない場面で、なかなか気の利いた英語の表現に遭遇する。この夏も、ボクはそういう表現にいくつも出会った。こういうのも、記録にとどめておかないと忘れちゃうので、紹介しておこうと思う。
まずはretail therapy。恋の病にとりつかれた娘に対して、仲のよい友人がYou need a retail therapyと慰めていたのを聞いて、うまいことをいうなあと思った。日本語でいうと、ストレス解消のための買い物、ということだが、買い物ではなくセラピーの方に重心があるところがよい。ちなみに、この友人は、ボクのいる前で、ボクにわざと聞こえるようにいったので、言外には「お父さん（つまりボク）、買い物につれていってあげたら」という意味がこめられていたのである。リテールも、セラピーも、どちらももう日本語として定着しているから、このフレーズは、そのまま日本語としても十分通用するね、きっと。
次にcute proof。これだけ聴いたのでは何のことかちょっとわからないが、解説をきくとなるほど、と納得する。ご存知のとおりsound proofというと「防音」ということ。またwater proofというと「防水」のこと。つまり、proofという単語には、何かを防ぐという意味がある。では、cute proofとは何のことか。Cute を防ぐ？ボクの娘は、夏の間、小さな子供たちに自転車の乗り方を教える野外学校pedal heads（この名前もなかなか気が利いている）でアルバイトをしていた。そういうところに来る子供たちは、一見とっても可愛い（cute）。しかし、一見可愛くても、いざ接してみると、モンスターのような子供も中にはもちろんいる。だだをこねて練習しなかったり、周りの子供たちに迷惑をかけたり、練習中にお漏らししてしまったり。で、娘は、自分は最近cute proofになった、というのである。つまり、cuteな外見にはだまされないようになった、という意味。しかし、ここにくる子供たちは、本当にかわいいです。
３番目は、この夏の間じゅうラジオで流れていたハナ・モンタナの曲の歌詞の一節。If you mean it, I’ll believe it. If you text it, I’ll delete it。前にも書いたが、 Textingとは、携帯でメールをやり取りすること。気持ちを告白するときは、メールではなく、ちゃんと面と向かっていいなさい、という意味がこめられている。彼女がなぜ人気があるのか、ボクにはまったく理解できないが、この一節だけは、当世の若い人たちの心をよくつかんでいると思った。
さて、最後。We aim to please, so you aim, too, please。しばらく行っていなかったら、いつの間にか、cliffhangerという、屋内でロッククライミングができる施設が、新しい場所に引っ越していた。今年、たまたまその新しい方へ行ったとき、そういえば、引っ越す前の場所の男子トイレの中（というか便器の上）には表記のフレーズをいれた可愛い絵がかかっていたっけ、と思い出した。いやー、実に気の利いたフレーズでしょ、これ。で、ボクはこの絵がいまでもかかっているか、楽しみにして男子トイレに入ったのですが、もうありませんでした。残念でした。</description>
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         <category>my favorites</category>
         <pubDate>Wed, 27 Aug 2008 12:44:30 +0900</pubDate>
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         <title>Vancouver Unitedの赤と黒</title>
         <description>午後5時半。
まだ、ほとんど選手たちは到着していない。
ボクは、ゴールポストにネットを張り始める。
白いプラスチックのバケツ。その中には、ネットを芝生に留めるための黄色いペッグが10数本と、そのペッグを打ち込むためのハンマー、そしてサイドネットの張りを良くするための赤いリボンが入っている。それらを一度全部外に出し、空になったバケツを逆さまにする。その上にのって、ゴールポストの上側の留め金に、ひとつひとつネットを引っかけていく・・・。
フィールドを振り返ると、コーチたちは、今日の練習のための打ち合わせをすませ、青やピンクのコーンを等間隔に置いてまわっている。
今年のVancouver United U-17女子チームは、コーチ陣がかつてなく充実した。ヘッドコーチのほかに、アシスタントコーチが3人。キーパー、オフェンス、ディフェンス、そしてフィットネスと、それぞれの担当がきっちり決まっている。
ボクがネットを張り終える頃までには、赤と黒のユニフォームを着た選手たちが、次々に到着している。芝生に車座になって、スパイクの紐をしっかり結びなおしたり、ストレッチしたりしながら、みんなで一時のおしゃべりを楽しんでいる。時々、あたりの静寂をつらぬく笑い声が、空に響く。
北米の一年のサイクルは、9月のレイバー・デイを基準にして始まる。レイバー・デイが過ぎると、サッカーシーズンもいよいよ本番を迎える。だから、8月の中旬から、選手たちは、夏休みでダレ切った身体を絞り込むために、ほとんど毎日のように、練習にはげむ。6時から8時まで、みっちり2時間。チームの当面の目標は、レイバー・デー前に前哨戦として組まれている親善トーナメントで、よい成績を収めることである。
いよいよ、練習が始まった。
赤と黒。黒と赤。めまぐるしく選手たちが動いている。
ときどき、コーチたちがその動きをピタリととめ、指示を出す。
そしてまた、赤と黒、黒と赤。赤と黒、黒と赤・・・。
ボクの娘は、ＶＵの年齢別代表にこれまで6年間連続して選ばれている。6年ずっと選ばれているのは、ほかに5人しかいない。一緒にＭＦを組む運動量豊富なブリアナ、レフティーでディフェンスの要のヘイリー、堅実なプレイが定評でＰＫをはずさないサラ・Ｌ、背が低いのにヘディングシュートのうまい意外性のサラ・Ｍ、そして天才キーパーであるにもかかわらずＦＷをやりたがるグレタ。みな類まれな女性アスリートたちであり、その一方でまた、みなごく普通のティーンエイジャーでもある。
3年前、ＶＵは、レイバー・デーのトーナメントで優勝した。しかし、残念ながら、このところの成績はかんばしくない。本番のシーズンでも、なかなか勝てず、最近は負け犬チームのレッテルさえ貼られている。州の島部にはいくつも強いチームがあるし、ライバルの隣町バーナビーもなかなか侮れない。
今年は、コーチ陣が充実したし、期待できるＦＷとＭＦの新たな戦力も加わった。だからなんとか、リベンジを果たしてもらいたいものだ。Go red! Go black! Go～～ Vancouver United !!!</description>
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         <category>my favorites</category>
         <pubDate>Fri, 22 Aug 2008 13:11:12 +0900</pubDate>
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         <title>Nowadays, they don’t date, but they hang out</title>
         <description>もうすぐ16歳を迎えようとしているボクの娘に、同い年のボーイフレンドができた。
この夏参加したビーチバレーの合宿とトーナメントで、二人は仲良くなった。バレーでコンビを組む娘のパートナーが、このボーイフレンドの従兄のガールフレンドという関係である。そして、この従兄の父親が、ビーチバレーのコーチなのだそうだ。やっぱりこの世界は狭い。
娘のいうところによると、実は彼女は、ずいぶん前からこの彼のことを気に入っていた。彼女は、去年の夏、小さな子供たちに自転車の乗り方を教えるアルバイトをしていたのだが、どうやらそこで初めて知り合ったらしい。娘の友人たちの間には、彼女が彼を気に入っているので、「あの彼には手を出すな」という暗黙の了解ができあがっていたたようである。ところが、二人ともシャイで、なかなかきっかけがつかめず、ずるずるとこの夏まできてしまった。それがようやく最近になって、どちらもちょっとずつ勇気を出し合ったことで、一緒になれたということらしい。
初めて恋に落ちた娘の行動を観察していると、なんともいじらしい。
電話番号やメールアドレス（こちらではtextingという）を交換したあと、ずっと携帯を握り締めて、相手から連絡が来るのを待っている。そして、連絡が来たあとも、すぐ返事をすべきかどうか、ああでもない、こうでもないと自問自答している。ほかの友達たちから、「カップルになったのか？」というメールの問い合わせが殺到し、親友と「いったい誰が言いふらしているのか」と、これまたああでもない、こうでもないと詮索している。そうした「ああでもないこうでもない状態」が、一日中、延々と続くのである。
はじめて彼から「オヨバレ」がかかったとき、ボクは娘に「どこでデートするんだ？」ときいた。そしたら、最近の若い人たちは、二人きりのデートというのはあまりしないのだそうである。デートではなく、ハングアウト、つまり何人かの仲間たちと一緒にいる中で楽しむのである。二人だけでなく、仲間のネットワークの中で関係を築いていくということなのであろう。
というわけで、その最初のハングアウトは、ビーチバレーのコーチの家であった。
プールもあるし、テニスコートもあるし、ビリヤードテーブルもある。ハングアウトするには、まさに最高の環境らしい。
ボクが車でその大邸宅まで送っていくと、途上、娘はそわそわしはじめた。鏡で何度も化粧を直している。鏡を閉じたり開いたりして、「ああ、緊張してきた」とため息をもらす。
「緊張？何で？」
「だって、こんなに男の子のことを好きになったの、はじめてなんだもん」。
そうか、そうだよな、そうに決まっているよな。
そのピュアな心にうたれ、思わずほほえむ。そして「Good Luck！」と、送り出す。
娘の門限は、深夜の12時。
あとからきくと、彼はちゃんと彼女を家まで送り届けてくれたそうである。車を運転できる年齢ではないので、二人はバスを乗り継ぎ、歩いて帰ってきた。そして、彼は自分の家まで、またバスを乗り継ぎ、歩いて帰っていったそうである。
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         <category>コンセプト</category>
         <pubDate>Thu, 31 Jul 2008 23:18:35 +0900</pubDate>
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         <title>知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその⑧～「政府」という方言？～</title>
         <description>1792年、フランス革命が飛び火してヨーロッパ全土に戦争が拡大したとき、ワシントン大統領は「中立宣言」を出した。この行為が条約の批准には上院の同意を必要とするというアメリカ連邦憲法の規定に違反して行われたのではないかどうかで、大論争になった。フランスとはすでに条約があり、中立宣言はその条約を事実上無効にする効果をもつ。そこで、マディソン（およびジェファーソン）は、自らの政治的立場がフランス革命に同情的であったこともあり、ワシントンの行為は憲法違反であると主張した。しかし、彼らの主張は、親英派で連邦派であるハミルトンらによって、退けられた。
当時マディソンとハミルトンとのあいだで激しく交わされた論争は、アメリカの歴史家や憲法学者のあいだでは『The Pacificus-Helvidius Debates』として重要視されているが、日本ではあまり知られていない。ボクの知る限り、この論争の邦訳は出ていないし、これについての研究もほとんどみたことがない。
しかし、とくにマディソン（Helvidusは彼のペンネーム）がこの論争の中で展開している議論は、非常に面白い。そう、それは、憲法を原理的に考える上で非常に面白いし、今日でも非常にためになるのである。
マディソンの議論のひとつは、そもそも「政府(government)」とは何か、という論点であった。マディソンは、「・・・言葉の使い方が、しばしば考え方そのものにしだいに影響を及ぼし、不適切な使い方によって、本来なら見逃すはずもない誤謬を覆い隠すにいたることが見受けられる」と述べ、「とくに、私は、執行府（Executive）の権限のみを指して『government』という言葉を用いる彼［ハミルトン］の用語法」に注意を促したいという（pp.90-91）。
マディソンによれば、ハミルトンは本来であれば「大統領」といえば済むところをわざと「government」という言葉で表現し、中立宣言が大統領すなわち執行府によって出されたのではなく、それよりも大きな「government」なるものによって出されたかの幻想をかもし出している、と批判している。しかし、そもそもgovernmentとは何であろうか。マディソンは、「アメリカにおいて、『政府』といった場合、それは政府全体を意味するのであって、単に執行府のみを指したり、執行府を優先的に意味したりするわけではない」（p.91）と断じる。たしかに、君主制のもとでは権限のすべての部分が、ひとつの、すなわち単数形の、「政府（government）」へと収斂していくであろう。しかし、立法府もあり、司法府もあるアメリカにおいて、執行府をgovernment（しかも単数形）と表すのはおかしい、というわけである。そして、マディソンは、ハミルトンがそのように巧みに言葉を選んで使っていることを、「新しい方言」である、と強烈に皮肉っているのである。
日本では、三権のひとつを「行政府」と呼ぶ。つねづね言っていることであるが、この呼称は、「立法府」や「司法府」とパラレルでないばかりか、それだけが（「行」を略して）「政府」であるがごときの印象を与えるので、きわめて不適切である。ボクは、これは「執行府」か、あるいはかつて明治の初期に使われていた「行法府」に改めているべきだと考えている。（三権のひとつにすぎない）内閣の官房長官でしかない町村さんが「政府といたしましては、・・・・」と発言するのを聴き、われわれがなんとも不思議に感じないとすれば、それはマディソンがいうところの「本来なら見逃すはずもない誤謬」にわれわれの方が覆い隠されてしまっているからにほかならない。
注：引用はすべてAlexander Hamilton and Jamese Madison (edited and with an Introduction by Morton J. Frisch), The Pacificus-Helvidius Debates of 1793-1794, Liberty Fund 2007 より 
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         <category>アメリカ建国シリーズ</category>
         <pubDate>Sat, 26 Jul 2008 16:02:39 +0900</pubDate>
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         <title>2008年夏ゼミＯＢ会</title>
         <description>先日、ゼミのＯＢ会が催された。現役生と卒業生合わせて50人が参加した。小さなレストランのような（バーのような）会場は自由に歩けないぐらいひしめき合い、熱気で埋め尽くされてしまった。
50人とカンタンに言うけど、これはすごい人数である。知り合いの名前を挙げてみろといわれて、すぐ50人もの名前が思い浮かぶ人は、政治家とか会社の社長さんとかは別にして、ボクぐらいの年齢の大人の男性ではそうはいないと思う。本当に、大学の先生になってよかった。みんな、本当に素晴らしい子たちで、このような若い人たちと交流することができて、ボクは幸せものである。
さて、事前に現役生たちには警告しておいたのであるが、先輩たちは相変わらずものすごくパワフルであった。１期生の木下君と酒井君は、いつものように、ボクに対して下ネタ攻撃を機関銃のように浴びせた。はじめのうちボクは反論していたのだが、彼らのパワーに圧倒されて、最後は黙ってしまった。その一部始終を、６期生の垣坂君と今井君があっけにとられて見ていた。いい刺激になったことと思う（←別にまねする必要はないからね、いっておくけど）。
２期生の中では、藤井君と卒業以来はじめて再会することができた。11時を回ってもちゃんと駆けつけてくれたことがとっても嬉しかった。３期生では五味君が１次会の終わりに、また４期生の杉山さんも２次会から出たところに駆けつけてくれた。みんな、疲れている中、顔を見せてくれて、感謝、感謝。
中には、人生の転機を迎えている人もいた。１期生の大村さんからは結婚したとの報告を受け、会が始まる前に夫を連れてきて紹介してくれた。おめでとう。それから、何人かの卒業生は転職していたし、また転職を計画中である人もいた。それぞれ、いろいろと考えた末での決心であろうかと思うが、ちょっと心配だったのは、そういう中に女性の卒業生が目立ったことであった。女性の働きやすい環境が日本社会の中でもはやく確立してほしいものである。いつか、君たちの経験を、現役のゼミ生たちにぜひ紹介してください。
今回は、幹事を務めた６期生の境さんが、素晴らしい準備と円滑な運営をしてくれた。綿岡君など現役４年生たちが、先輩たちとの調整や連絡で大きく尽力してくれたらしい。いちばん下の６期生も、パワフルな先輩たちになんとか絡もうと、みんなけなげに頑張っていた。現役幹事長の古條君も、まあ彼なりによく努力していた（←ただ乾杯のときの「すべり」はどうしようもなった）。
逆に、先輩たちも、後輩たちと絡むことができて嬉しそうであった。１期生の仁木君は、早稲田のスポーツ話で５期生の藤居さんと「盛り上がっていた」（←そう自分で表現していた）。４期生の細谷君と木村君は、６期生の女の子に囲まれて話していて、心底楽しそうだった（←去年はまったく相手にされなかったのに、よかったね）。それから、５期生の佐藤さん、鎌田さん、日野さん、森田君などは、目立たないところでいろいろ気を使ってくれていた。ありがとうございました。
ＯＢ会も、回を重ねるごとに、同期の人だけでなく、縦同士でもつながりが出てきた気がして、とても嬉しい。実際、２期生の片山君と５期生の畑中君のように、これからは役所のなかでカウンターパートになる可能性もある人もいるし、また３期生の吹出さんと５期生の俣野君のように同じ会社で先輩後輩の関係になる人もいるわけである。将来も、ここで築かれた人間関係を核にしていってほしいと思う。
ＯＢ会に来れなかった卒業生のみなさん、今回は残念だったが、また年末もやるので、是非そのときには元気な顔を見せてください。
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         <link>http://kohno-seminar.net/blog/2008/07/2008_2.html</link>
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         <category>ごあいさつ</category>
         <pubDate>Mon, 21 Jul 2008 15:14:45 +0900</pubDate>
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         <title>今どきジェネラリスト宣言</title>
         <description><![CDATA[時はいま、スペシャリストの時代であるらしい。
何か特別な技能や資格を持っている人の方が、就職や再就職のとき強いといわれている。
逆に、ジェネラリストの評価は、著しく低い。
総合と名の付く業種、たとえば総合デパートとか総合メーカーとかは、日々血眼になりながら、生き残る道を模索している。いや、彼らは、しばしば「総合＝ジェネラリスト」としての自らのアイデンティティを捨てることで、なんとか活路を見出そうとしているようにもみえる。
ボクは、時代とまったく逆を行くようだが、いつも自分の学生にはスペシャリストにならないでジェネラリストになりなさい、といっている。たしかに一見「何でもできる人」が、実は「何にもできない人」であることもある。しかし、<strong>一見</strong>ではなく<strong>本当に</strong>「何でもできる人」がいたら、それに越したことはないではないか。
スペシャリストに比べてジェネラリストの評価が低いというのは、どう考えてもおかしい。それは、部分集合の方が和集合よりもでかいと主張するのと同じで、まったく論理的ではない。
ボクの限られた人生経験からいわせてもらうと、趣味のいい人は、どのような分野においても趣味がいい。また、ひとつの分野で才能のある人は、結構いろいろな分野で隠れた才能をもっている。そういうものである。
たとえば、センスのよい音楽を聴いている人は、洒落たユーモアをもち、語彙も豊富で、クレヴァーな会話ができる人が多い（←具体的に誰って言われるとちょっと困るが、たとえば村上春樹とか）。美味しいレストランを知っている人は、オシャレな服を着ているし（←青木昌彦とか）、自分で料理をさせても一流である（←ジョン・フェアジョンとか）。ある競技で秀でたスポーツの才能を持った人は、別の競技をやらせてもたいていうまくこなしてしまうし、場合によってはプロ級の技術を身につけている（←ボクは、バスケットのスティーヴ・ナッシュがサッカーボールを一流のサッカー選手のように扱うのを実際この目で見たことがある）。
･･･というわけで、何がいいたいかというとですね、趣味の良さとか何かに秀でているとかということは、分野を超えて相乗効果を持つものだと思うのです。まったく関係のない分野だと思ってはじめから切り捨てるのではなくて、いろいろな分野で才能を磨いていこうとすると、結局すべて自分に財産となって返ってくる、そういう気がするのであります。
よく大学院へ進学が決まった学生が「先生、授業が始まるまで、何を読んでおいたらいいですか」とたずねてくることがある。そういう時に、ボクは決まって次のようにいう、「院の授業が始まったら、専門的な論文ばかり読むようになるから、まったく関係のない本をいまのうち読んでおきなさい」と。あるいは、映画や演劇を見に行けとか、スポーツをしろとか、いい恋愛を経験しなさい、とか･･･。
要は、何でもよいのであって、何でも真摯に一生懸命に経験することが、必ず、後に自分の専門とする分野にも生きてくる、そういうものなのである。
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         <link>http://kohno-seminar.net/blog/2008/07/post_130.html</link>
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         <category>コンセプト</category>
         <pubDate>Thu, 17 Jul 2008 17:10:35 +0900</pubDate>
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         <title>原理的に考えること、あるいは「主権」と「人権」と「権力分立」の話</title>
         <description>日本では、小学生のときから民主主義と憲法とは不可分なものだと教えられる。しかし、いろいろな場面ですでに何度も述べてきたことであるが、民主主義と憲法というのは原理的に対立する。単純化していうと、民主主義とは少数派の暴挙によって多数派が踏みにじられないようにすることを保障しようとする制度であり、憲法（立憲主義）とは多数派の暴挙によって少数派が踏みにじられないようにすることを保障しようとする制度である。当然のことながら、この間のバランスをとることはむずかしい。
このように本来原理的に異なるということをさておき、日本の憲法は「民主主義憲法」であるとか、日本は「立憲民主主義」の国であるとかいう言葉だけを覚えたのでは、いったいどうやって「このバランスを実現していくのだろうか」という重要な問いにまったく答えられない。そう、まったく答えられない。
最近つくづく思うのであるが、日本のすさまじくヒドイ社会科教育のもとでは、このように、子供（というかわれわれ大人もふくめて）の想像力を奪ってしまうような常識がまかり通っている。実際、こうしたウソの常識の多さは、呆れるほどである。
たとえば、日本国憲法の三つの特色は、国民主権、基本的人権の尊重、そして平和主義である、と、これまた決まったように、小学生のときから教えられる。しかし、「主権」という概念と「人権」という概念は、原理的に相容れ合わない。そんなことは、すこし想像力を働かせれば、すぐわかることである。主権というのは、国民にせよ、君主にせよ、唯一で絶対的な権力をもつ「誰か」が存在する、という考え方である。これに対して、「人権」というのは、いかなる「誰か」からも犯されることのない崇高な権利をわれわれ一人一人が持っている、という考え方である。
主権と人権が原理的に相容れないからこそ、たとえば、「主権国家」である中国における「人権」が問題となるのである。民主主義と憲法の問題と同様、主権と人権の問題も、相対立する二つの考え方の間でいかにバランスをとるかという話であって、そのようなバランスのとり方を自ら真剣に考え抜こうとしない限りは、いつまでたってもわれわれの中国に対するスタンスが腰の座ったものにはならない。
もうひとつ、日本国憲法についてのウソの常識としては、権力分立というまやかしがある。立法府から人を送り出して行政府を構成する議院内閣制が、権力分立の制度であるわけはない。権力分立の大前提は、同一人物が二つ以上の権限を握るポジションに就かないということである。ゆえに、立法府から行政府に送り出された大臣たちが、議会内での議員としての身分を辞するということが制度化していない限り、権力分立が確立されているとは到底いえない。また、そもそも、権力分立という考え方と、先の主権という考え方とは、相容れない。主権というのは、前述の通り、君主であれ、国民であれ、「誰か」が唯一で絶対的な権力をもつという考え方である。それゆえ、原理的には、どうして「唯一」で「絶対的」な権力を、分けることなどできるのであろうかと問わねばならないはずである。
この疑問に納得する回答が得られない限りは、どのような統治機構の形態が望ましいかというような問題について、われわれはおよそ体系的に考えることはできない。議会は一院制であるべきか二院制であるべきかとか、首相公選制を採用すべきか否かなどといった、今日一部で論争をよんでいるいくつかの「憲法問題」なるものを考える前に、われわれは「原理的に考える」習慣をまず身につけなければならないのである。
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         <link>http://kohno-seminar.net/blog/2008/07/post_129.html</link>
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         <category>コンセプト</category>
         <pubDate>Sun, 13 Jul 2008 04:19:19 +0900</pubDate>
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         <title>知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその⑦～ハミルトンの伝説～</title>
         <description>アレキサンダー・ハミルトンは、ワシントン大統領から信頼の厚かった初代財務長官であり、若くして権力と名声をほしいままにした男であった。しかし、その晩年は、惨めなものであった。ジェファーソンおよびマディソンとの政争に破れ、同じ連邦党の中でもアダムズとは犬猿の仲であり、義憤にかられて何度も決闘を仕掛けたり仕掛けられたりし、最後はアーロン・バーとの決闘で死ぬことになる。
ただし、連邦合衆国がいまのようにひとつの国家として発展する礎を築いたことにおいて、彼の功績は、いまでも高く評価されている。有名な話だが、アメリカで比較的頻繁に使われる10ドル札の肖像は、ハミルトンである。ハミルトンのほか、大統領になったことのない人物で、お札に使われているのは100ドル札のフランクリンしかいない。ハミルトンを10ドル札に起用したのは、クーリッジ大統領であった。クーリッジは共和党出身の大統領であり、共和党は産業界により近いとされている。ハミルトンは、アメリカのビジネスリーダーたちにとっては、最大の貢献者、永遠のヒーローなのである。ちなみに、これも有名な話しだが、ハミルトンの政敵であったジェファーソンは、というと、彼の肖像が使われているのは２ドル札である。しかし、日本の2千円札と同じで、アメリカで2ドル札というのは日常ほとんど使われない。ジェファーソンがこのように軽視されていることを不満に思って、ジェファーソンを多く流通している５セントコインのアイコンにしたのは、民主党出身の大統領フランクリン・ルーズベルトだったそうである。
ところで、ハミルトンの究極の命とりになったのは、女性問題、いまでいう不倫であった。当時、ハミルトンは、公的資金の流用疑惑も噂されており、議会のメンバーたちが彼を訪れて調査をすることになったが、彼は資金流用については否定するものの、不倫を認めてしまうこととなる。これが引き金となり、ハミルトンに対する信用は失墜する。さまざまな噂が流れ、そのたびにハミルトンは詳細な反論を書き、それゆえ結果として不倫の一部始終が世間に知られることになるのである。
議会の調査メンバーの中には、後に大統領となるジェームズ・モンローが含まれていた。ハミルトンの私生活についてさまざまな噂が流れるようになったのは、どうやらモンローが守秘義務を怠り、調査報告のためのメモを「友人」ジェファーソンに渡したからである、といわれている。そこで、モンローとハミルトンは、あわや決闘するかもしれない、という険悪な関係になった。
ハミルトンの死後、ハミルトンの妻エリザは、しばしばホワイトハウスの夕食会に招かれた。夫アレキサンダーの偉大さゆえにか、ファーストレディは必ずエリザに自分の椅子を譲って座らせようとしたらしい。おそらくは、エリザ自身も、夫と同様、魅力的で、また気丈な人物だったにちがいない。
ある時、すでに大統領を引退していたモンローが、エリザ・ハミルトン宅を訪れた。過去のことを水に流したいというモンローに対して、エリザは歓待するどころか、元大統領を椅子に座らせることもなく、その申し出を断ったという。エリザにとっては、モンローはあくまで、自分の夫を失墜させた張本人であった。モンローは静かに頭をさげ、その場を立ち去ったそうである。
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         <category>アメリカ建国シリーズ</category>
         <pubDate>Thu, 10 Jul 2008 12:54:25 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>ソックスの帳尻</title>
         <description>銀行では、3時にシャッターがしまったあと、その日の金の出入りをとことん帳尻が合うまでチェックするのだと聞く。最後の1円まで計算が合わないと、銀行員さんたちは帰宅できないらしい。1円や2円計算が合わないだけだったら、自分の財布から出して、帳尻を合わせればよいではないかとも思えるが、たとえ金額が１円であっても、そこでちゃんとけじめをつけなければ、公私混同であることには変わりない。そうした行為を許すと、ひいては横領とか、架空名義口座とか、やってはいけないことへ道を開いてしまうことになるのかもしれない。
しかし、すごいと思うのは、１円まで帳尻を合わそうとして、毎日ちゃんと帳尻が合っているという、その事実である。朝起きて、テレビニュースで「横浜市の○○銀行は、昨日、入金と出金が一致しなかったため、やむをえず今日、業務を一日休むことになりました。お客様には大変ご迷惑をおかけしますが、ご理解ください、とのことです」なんて報道がなされたことは、もちろんいまだかつてない。つまり、世の中の銀行員さんたちは、目をサラのようにして金の出入りをチェックし、最後の1円まで探す努力を、来る日も来る日もけなげに続けておられるのである。
ひるがえって、我が家の話であるが、ウチではよくソックスの片方がなくなる。おかしいじゃんか、ソックスに足が生えて歩き出すことはない、どっかにあるはずだと、目をサラのようにして引き出しやタンスの中を探すのであるが、出てこない。
先日、勘定してみたら、そういう相棒なしソックスが４つもあることに気付いた。これは世の銀行とは大違いである。いつ頃からこうしてソックスの帳尻があってない状態が続いていたのだろうか、と自分ながら情けなくなってしまった。東証一部上場の大企業である銀行は、毎日1円まで、帳尻を合わす努力をしている。他方、はるか零細なウチはなんと４足も靴下がミッシングであっても、さして気にとめるわけでもなく、何事もなかったかのように生活が続いている。これはまずい・・・なんとかしなくてはいけない・・・、と、早稲田のちょいわるオヤジは思い立ったのでありました。
で、ふと思いついて、きのう、洗濯機をよいしょと前の方へ移動し、その後ろになにか隠れてないかなと見てみたら、いました、いました、片割れソックスの相棒たち。ホコリにまみれて、「ああ、見つかっちゃったか」という感じで、次から次へと出てきたのであります。そうなんですね、ボクは洗濯物を洗濯機にいれるとき、遠くから放り入れるクセがあるんですね。それで、もしやと思い、調べてみたのでした。こうしてようやく、我が家のソックスの帳尻を合わせることに成功したのでした。（面白いことに、そこには４足の片割れソックス以外は何もなかった。なんなのだろうか、このソックスの逃亡癖は？？）
考えてみれば、このソックスの帳尻合わせに、ボクはかなりの時間と労力を費やした。結構頭脳も使って、あそこではないか、ここではないか、と考えもした。
こうした苦労をしたくないとすれば、どうすればよいか、もちろんわかりますよね。
そう、それは、持っているソックスを全部同じもので揃えればよいのであります。そうすれば、ひとつやふたつなくなったって、なんということはありません。
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         <category>コンセプト</category>
         <pubDate>Wed, 02 Jul 2008 23:43:40 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>一緒に食事することの意義</title>
         <description>ボクの大学院の指導では、修士と博士の学生を合わせて、2コマ続けて授業をしている。今年は、2限と3限にやっているので、その間には昼休みが入るが、ボクらは、弁当を配達してもらって、一緒に食べることにしている。食事を一緒にすることで、研究室の中の連帯感が強まる感じがしてよい。勉強以外のことでも、会話ができる場がそこに出来上がるからである。
友人から聴いた話だが、日本のある有名な二枚目男優さんはけっして自分が食事しているところを他人に見せないのだそうである。ロケでもスタジオでも、どこへいっても食べるときは一人きり。スタッフや共演者とも一緒に食べることはしないし、もちろんマスメディアはシャットアウト。なぜかというと、食べるというのは、その方にとってプライベートな行為だからだそうである。ま、そういわれてみれば、むしゃむしゃと音をたてて食べるクセがあることやどのおかずを食べ残しているかがわかっちゃったりしたら、男優としてイメージダウンにつながる可能性がある。ましてや、ホウレン草が歯の間に挟まっているところを必死で取ろうとしている表情が画像で報じられたりしちゃったら（←別にホウレン草でなくてもよいけど）、取り返しがつかない。食べるという行為の中に、本当は他人に見せたくない要素がいろいろと入っていることは、確かである。
だから、人と一緒に食事をするということは、プライベートな空間を共有することで、その人と親しくなりたいというメッセージを送っていることを意味する。院生たちへの指導においても、同じ弁当を食べることで、場の雰囲気がなごんでいることは疑いない。
しばしば、デートが食事を介して行われるのも、やはりそうした食事の効用があってのことである。もちろん、食事を介したデートには、いろいろな段階というかハイラーキーがある。それゆえ、どういう食事をするかによって、どういうデートにしたいのかについての重要なメッセージを相手に伝えることができる。
たとえば、午後のコーヒー＆デザートに誘われたということは、相手はまだまだ「様子見」を決め込んでいるだけだ、と思った方がよい。コーヒー＆デザートは、たとえそのようなデートがあったとしても、あとから「そういうつもりじゃなかったの」と平気でいえるような、デートハイラーキーの最下層に位置する段階でしかない。コーヒー＆デザートに誘われたくらいで、舞い上がることは禁物である。
おそらくもっとも重要なのは、ランチデートである。はじめてランチに誘われたなら、準備は周到を尽くさなければならない。そこでは相手から、将来発展する可能性があるかを終始真剣に「テスト」されている、と思った方がよい。その場の成績次第ではさらにディナーへと発展するかもしれない。成績が悪ければ、もちろんそうした展開はない。ランチに誘われて、いつまでたってもディナーに誘われなかったら、それは「不合格」をもらったと思って、あきらめるしかないのである。
では、ディナーを一緒にするというのはどうか。これはもう完全に「脈あり」である。すくなくともディナーに誘った側は、その気満々にまちがいない。だからこの場合、問題は受ける側である。その誘いを受けてしまったら、それはあとから「そういうつもりはなかったの」というわけにはいかないような、デートである。だから、ディナーとは、誘うよりも誘われる方が、大きな決断を迫られていると思った方がよい。
悲しいことに、デートのハイラーキーは、登っていくだけのものではない。ときおり「ディナー」から「ランチ」への格下げが起こる、ということもある。あれれ、この前はディナーを一緒にしたのに、などと思ってももう遅い。それは、もう二人の間には将来がなくなりました、というメッセージを送られていると解さなければならないのである。
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         <category>コンセプト</category>
         <pubDate>Tue, 01 Jul 2008 22:46:17 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ゼミ対抗フットサル大会</title>
         <description>すこし前になるが、ゼミ対抗フットサル大会なるものが開催された。
場所は所沢。所沢ということころは都心から遠いと思っていたが、案外近いのである。高田馬場から指定席付の特急にのると30分もかからない。ボクは朝、横浜方面から向かったので、2時間ぐらい前に出たら、早く着きすぎて、駅のスタバでヒマをもてあましてしまった。
そのスタバからみていると、どうやら早稲田生らしい一群が次々と到着。われわれゼミのメンバーもだいたいそろったので、現地へ向かった。
われわれの面子は、飯田、今井、橘田、西山、古條、綿岡、それにボク。板村と日野が応援に駆けつけてくれた。3つのグループにわけ、それぞれ8試合まずやって、上位2チームが決勝トーナメントに進むという方式だった。
さて、最初の出番を待っていると、久米ゼミチームがボクのところへきて「先生、人数がまだそろわないので、出てください」という。その日は、日差しが強く暑かったので、あんまり最初から飛ばすと体力がなくなるのではないか、と心配だったが、本番の前のウォーミングアップのつもりで出た。試合には負けたが、久米先生に恩を売ることができた（←久米さん、忘れないように！）。
で、本当の最初の試合は、森ゼミチーム。ここには（後で名前が判明した）「ヒトミちゃん」という、女性ストライカーがいた。女性の得点は2点。われわれは、試合の最初の方でこのヒトミちゃんにゴールを決められ、リズムを崩した。次の試合は勝ったものの、それ以降も、この初戦敗戦のショックが尾を引き、結局予選突破は早々とあきらめなければならなくなった。
試合の合間の休憩時間には、いろいろ面白い光景を見た。ナチ（板村）は、体育会部所属からか、やはりこういう場では顔が広い。橘田という男は、知っているいないにかかわらず、次々からへと声をかけて、友人を増やしていくという稀有な才能を持っていることがわかった。古條は、われわれとよりも、知り合いの女の子と一緒にいることを好んでいて、西山や綿岡から、「ホント、チャライよな、あいつ」という顰蹙を買っていた。その古條の友人の「リエちゃん」という女の子とボクが仲良くしゃべっていると、彼はヤキモチを焼いていた。しかし、このときは、ボクが自分をさておき、ゼミ生でない学生としゃべっていることに、ヤキモチをやいているのだ、と解説していた。ま、それが本心かどうかはわからない･･･。
フットサル大会を主宰した吉野ゼミの幹事の学生は、背が高く、とても感じがよい好青年だった。ボクが参加したことを、感謝していた。ボクは自分がフットサルをしたいだけだったのだが、あとから聞いたら、ボクがいることで、たとえばその場で酒盛りが始まるというようなことがなく、場が締まっていたということだった。そんなことならお安い御用で、毎年参加したいと思う。
最終試合の相手は、田中愛治ゼミだった。ボクらはピッチで円陣を組んで、この一試合に持っている力を全部出し切ろうと誓って、のぞんだ。0－0のまま、半分が過ぎ、飯田と交代して、ボクに出番がまわってきた。ボクは右の前の方に張っていたら、そこに西山からの好パスが来た。それを振りぬいて、ゴール左隅に決勝点を決めた。
おかげさまで、とてもよい思いをさせてもらった一日となった。
チームメートのみなさん、関係者のみなさん、どうもありがとうございました。
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         <category>ごあいさつ</category>
         <pubDate>Sun, 29 Jun 2008 12:27:32 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその⑥～国務長官から大統領へ？～</title>
         <description>ジェームズ・モンローは、第５代のアメリカ大統領である。日本では「モンロー宣言」という外交上の孤立主義を確立したことで有名だが、アメリカでは独立戦争を描いた「デラウェア川を越えるワシントン」という絵の中でアメリカの旗を持っている男、といったほうがピンとくる人がより多いかもしれない。
モンローが大統領になったのは、共和党の絶頂期であった。彼の前には、ジェファーソンとマディソンという二人の偉大な建国の父がそれぞれ2期8年ずつ大統領をつとめていた。モンロー自身も２期8年つとめ、そのあとジョン・クィンシー・アダムズへと引き継いでいる。
この間の政権交代を見ていると、ある共通点が浮かび上がる。それは、前国務長官が次の大統領になっている、というパターンである。すなわち、マディソンはジェファーソン政権下の国務長官であり、モンローはマディソンの下での国務長官であった。そして、Ｊ・Ｑ・アダムズもまた、モンロー政権で国務長官をつとめていた。
日本には禅譲という言葉があるが、こうしてみるとこの頃のアメリカでは、政権交代がスムーズにいっていたように見える。大統領は自分の後任にもっともふさわしいと思う人を国務長官に据えて、内外にアピールしたかったのかもしれない。
しかし、このモンローという男、実は、大統領になる前に、マディソンと何度も政治的に対立している。まずは、1788年のこと。（マディソンらが作った）連邦憲法を採択することに反対し、ヴァージニア州において反フェデラリストとして論陣を張った。そして1789年の第１回連邦議会選挙では、マディソンに対抗してヴァージニアから立候補している。そして、マディソンが次期大統領候補としての地位を固めつつあった1808年にも、彼はもう一度彼の対抗馬として名乗りを上げている。モンローは若い時からジェファーソンの寵愛を受けていた。そのジェファーソンが次期大統領にマディソンを推したことで、モンローはかなり落ち込んだらしい。しかし、結局マディソンもモンローの才能を再び高く評価するようになり、1811年彼を国務長官に任命して、自分の後継者とみなすようになるのである。
もっとも、ときに政治的主張がずれることはあっても、マディソンとモンローの二人の間には、ジェファーソンを介して、けっして崩れることのない尊敬と信頼関係があったようである。実際、この3人の間のコラボレーションは、多くの見事な成果を生んだとも考えられる。たとえば、マディソンが第１回連邦議会において、権利章典を含む憲法の修正を主張するようになったのは、ヴァージニアでの論争の中で、モンローが彼にそれを約束させるまで追い詰めたからだといわれている。このときジェファーソンはフランスにいたわけだが、ここでは彼の主張をモンローが代弁しそれをマディソンが受け入れたという構図になっているのである。
モンローがいなかったら、マディソンとジェファーソンの政治生命が早く絶たれていたかもしれない、というエピソードもある。
それは、ジョン・アダムズ（連邦党）政権のもとでの「外人・治安法」成立に対抗して、ジェファーソンとマディソンが秘密裏にそれぞれヴァージニア決議とケンタッキー決議を起草した後のことであった。ある夜、ジェファーソンは、第２弾のヴァージニア決議の相談のためマディソン宅を訪れようとする。しかし、たまたまその場に居合わせたモンローが、ジェファーソンを引き止めて言う。「今の時期、政権側の副大統領（ジェファーソン）とヴァージニア州の下院代表（マディソン）が会談したということが知られたら、ましてやそれが決議と関係している会談だったなどということが知られたら、大変なことになるのではないですか」と。モンローの気転のおかげで、これらの決議の著者の正体が明らかになるのは、ずっと後のこととなったのである。
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         <link>http://kohno-seminar.net/blog/2008/06/post_124.html</link>
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         <category>アメリカ建国シリーズ</category>
         <pubDate>Sat, 21 Jun 2008 23:36:42 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>合宿風景2008</title>
         <description>前期合宿を菅平で挙行した。5期生の間にはちらほら欠席者があったが、6期生は全員という素晴らしい参加状況であった。行きの車は、飯塚君が運転する車に、古條、飯田、今井君と一緒に乗った。場を盛り上げるため、ボクの取っておきの「西麻布接待話」をしたら、車内での会話が弾むようになった。今井君、飯田君も続けて結構面白い話しをしてくれた。こういうネタをいくつかもっておくのも、会話の場の雰囲気を悪くしないために大切なのだ。とくに幹事長の古條君、そこんとこよろしく。
その日は、着いたのも遅かったし、早く寝た。
翌朝は6時半に起床。朝飯の前に、西山君、上河君、俣野君とジョギングした。俣野君は、自分でも言っていたが、オーバーウエイト気味。いまからそんなことでは、大変だぞ。上河君は、見晴らしのよい丘が見えると、突然ワケのわかんないダッシュで駆け上がって、一気に疲れたなどといっていた。相変わらずペースを考えない生き方をしているなあ。
スポーツのメニューは、ソフトボール、サッカー、ドッジボール、バレーボール、それにバトミントン。ソフトボールでは、4年生チームが勝った。ボクがボックスに入ったとき、ピッチャーの垣阪君は気を使ってか甘く見てか、ちょっとゆるい球を投げてきた。そしたら、センターへうまく打てて、逆転のランニングホームランになった。人生、下手な情けをかけると痛い目に合うものである（←ちょっと大げさ）。休み時間に、軟式のボールでキャッチボールをして、尾崎君の投げる球を受けるのがとっても心地よかった。調子にのって、ボクも投球したら、右肩を壊してしまった。
サッカーは、3年生チームが勝った。手を怪我しながらも小田切君の体の強さはさすがだった。それからムッツリ関口君が得点したのには驚いた。その関口君をマークしているポジションのはずの上河君は、いつもそこにいなかった（←相変わらずだ）。4年生では、西山君の守備が光っていた。ボクは、去年と同じく、たいした活躍もできなかった。足を怪我しているという清水さんの足首を蹴ってしまったのは、申し訳なかった（本当にごめんなさい）。
それから、バレーボールでは、飯塚君がとってもよい動きをしていた。おっと、バレーボールといえば、佐藤さんも忘れてはいけない。？佐藤さん？って、もちろん「カツラ」のことです。佐藤さんと呼んでも、どうもピンとこないねえ。
今年も入ってきたゼミ生たちには女子が多いので、スポーツメニューで大丈夫かなと思ったが、彼女たちもぜんぜん楽しんでいるようであった。ファールにもかかわらず、全力でボールを追い返球していた境さん、よかったすよ（でも野球のルールぐらい知っておいた方がいいかも）。そうそう、ボクの知らない間に、川地さんと板村さんの間で、壮絶な卓球バトルもあったようで、次回は卓球も新たにメニューに入れなければならないと思った。
さて、余興および宴会も楽しかった。楽しかった？･･･うん、楽しかった（汗）･･･。ボクは、企画されたゲームで結構上位に食い込み、景品をもらった。藤田さん、いや「サヤ」が、とっても大事に選んでくれたクッキーの詰め合わせが、ボクにあたった。ところが、ボクはそこで大失態を演じることになる。その企画の後、流れで飲み会になり、ちょっと酔ってしまって、部屋に引き上げる際、そのクッキーの詰め合わせを、食堂にそのまま置いて引き上げてしまった･･･。翌朝になり、朝食の席で、サヤがジロリとこちらをみていう。「先生、とっても、･･･とっても大事なものを、お忘れになってはいませんか？」
ギクリ。うわー。
うーん、こういうキャラは、去年まではいなかったなあ。
あと宴会の席では、とうとう、ボクも山口さんに手相を見られてしまった。「生涯現役ですね！」うーん、うまいことをいう。これって「短命」ということかもしれないし、「あなたはいつまでも落ち着いた人生を送ることがない」ということかもしれない。（←ちょっとネガティヴすぎるか）
最後になるが、今年の合宿では、車を運転する責任があったにもかかわらず前の晩飲みすぎでつぶれ、帰りに思わぬ「バチあたった」男がいた。ま、迷惑かけたことをよく反省しているみたいだし、今回だけは大目に見てやろう。そう、今回だけは･･･。
みなさん、お疲れさまでした。また後期も楽しい合宿にしようね。
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         <link>http://kohno-seminar.net/blog/2008/06/2008_1.html</link>
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         <category>旅行</category>
         <pubDate>Sun, 15 Jun 2008 14:56:14 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>知っているようで知らないアメリカ建国の話シリーズその⑤～マディソンの土地投機が成功していたら？～</title>
         <description>アップステート・ニューヨークというと、ニューヨーク市から北、広大で見事な景観で知られる地方である。ヴァージニア出身のマディソンは、すくなくとも3度、この地方へ大きな旅行をしている。1度目は、まだ独立戦争が勃発する前の、1774年のこと。College of New York（現在のプリンストン大学）を卒業した後、故郷ヴァージニアに戻ったものの、知的刺激の少なさにカルチャーショックを受け、自らの将来を考えるための旅といった感じで、３ヶ月ほどの放浪に出ている。そして、３度目は、1791年のこと。ジェファーソンの発案で、彼と一緒に長い休暇旅行をしたとき。すでに政治家としての地位を固めた二人は、ヴァーモントやコネチカットまで足を伸ばし、二人の間の友情を一段と深めた重要な旅であったと伝えられている。
しかし、今日の話は、２度目の旅の話。それは1784年のことであり、このときの同行者はフランス人権宣言の起草者として後に有名になるラファイエット。ニューヨークからアルバーニ、そしてモーホークリバーヴレイの荒野へと進んでいった。当時この地方は、開拓のフロンティアとして大きな可能性を秘め、投機的投資が進んでいた。マディソンも、買えるだけの土地を買い、大もうけしようとたくらんだようである。
投機？あの堅物真面目男のマディソンが？なぜ？
ここは議論の分かれるところであるようだが、一部の歴史家たちの（マディソンへ好意的な）解釈によると、マディソンは自分が奴隷を使うプランテーションの経営者であることに罪悪感を覚えていたそうである。実際、1780年代のはじめには、マディソン家は118人の奴隷を抱えていた。そして彼は父親からモンテペリエ（現在彼を記念した建物が残っている）に560エーカーの土地を譲ってもらったところであった。しかし、若きマディソンはその頃はまだそこで一生を送るつもりなど毛頭なく、なんとか奴隷とは関係のない人生の送り方を模索していた。そして、その動機がニューヨークへの投機的投資へとつながっていった、というわけである。
とはいうものの、当時のマディソンは駆け出しであり、大きな儲けを生むだけの資金を持ち合わせていない。それで、彼はフランスにいたジェファーソンに手紙を書き、この投資に加わらないか、と持ちかけている。ジェファーソンの信用があれば、パリでたくさん金を調達できると考えたらしい。しかしジェファーソンは、自分にはそれほど信用があるわけではないと答え、計画はうまくいかなかった。しばらくたって、マディソンは、自分の持ち合わせで買った土地を売って利益を得ることになるのであるが、それは彼を一生奴隷との生活から解放するほどの儲けにはいたらなかった･･･。
マディソンがここで投機に成功し莫大な利益を得ていたら、果たして彼が政治家としての道を続けていたかどうかは、もちろん定かではない。フィラデルフィア会議も、連邦憲法も、共和党も、どうなっていたものか、まったくわからないのである。
ちなみに、ジェファーソンはこの話に加わらなかったが、マディソンの投資計画の相棒は、これまた若きジェームズ・モンローであった。マディソンとモンローとの関係は、非常に面白いが、これはまた次回ということで。
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         <link>http://kohno-seminar.net/blog/2008/05/post_123.html</link>
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         <category>アメリカ建国シリーズ</category>
         <pubDate>Sat, 24 May 2008 08:00:45 +0900</pubDate>
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